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ビャー
 <一>

 物心がついた。
 黒だった。

 黒く、ツルツルした、平べったいものが――を包む。わたし。わたしになったもの。
 黒く、ツルツルした、平べったいものが、袋の形であって、わたしはその中に入っている。そしてそれは、ひっきりなしに前に後ろに揺れて、合計すると前に進んでいる。
 わたしは毛むくじゃらで、ビーズの目を持っている。首には青いリボンが結ばれている。手足は前の方に突き出された形のまま、固まって動かない。わたしの体の中では、灰色の綿が巡っている。

 黒く、ツルツルした、平べったいものが、袋の形であって、わたしはその中に入っている。そしてそれは、今度は下向きに進み、わたしのしゃちほこばった両足は、前の方に突き出された形のまま、固い床に接触する。周囲の袋が少し、ひしゃげ、ざわざわと音を立てる。静寂。規則正しく土を蹴る音、静寂。風の音、鳴き声、静寂。
 わたしのビーズの目が左右を見渡す。黒くツルツルしたものが視界を阻んでいる。わたしの中で灰色の綿が巡っているが、わたしの手足は突き出された形のまま、固まって動かない。
 わたしの毛むくじゃらの体は、少ししなびてきたようだ。

 暑くなってきた。黒の薄っぺらい向こうに、光。太陽が出た。嫌い。わたしは耐える。暑い、眩しい、嫌い。太陽は一度おもいっきり暑くしてから、火力を下げていった。夜が来る。眩しさがどんどん薄れてくる。太陽が地面の下にさよならする。すると、夜が来る。わたしの時間。

 すとんと暗くなる。真っ暗の黒。わたしの頭の中で灰色の綿がぐるぐる回り出す。ビーズの目が上下左右に動く。首を動かす。灰色の綿が頭の中をぐるんと回って体の中をさらうようにひと巡りし、そこで四方に分かれて、右手右足左手左足の先まで入り込む。そして少しずつ、戻る。綿の抜けた場所から、腕の先から、少しずつ上へ動かしてやる。綿の抜けた場所が、足の先から、少しずつ縮んでゆく。やがてわたしはばんざいの格好になった。綿がばんざいの先っぽまで入り込んだ。足はすっかり縮んで、胴の中に吸い込まれた。
 わたしのしなびた毛が、燃えるようにちりちりと小さくなって、小さな芯だけ残して、消える。わたしは毛むくじゃらなわたしではなく、黒い短毛の私となった。
 頭に綿が詰まって重くなって、わたしは頭を振った。長い、新しいパーツがわたしの頭から飛び出た。わたしが頭を右に、左に、振るうと、新しいパーツは左に、右に、揺れる。
 わたしは新しい体に満足すると、黒い、袋の中から外へ出た。

 涼しい。思わずわたしの口から声が漏れた。わたしは声を出せることを知らなかった。わたしは夜風を浴びながら、言葉を口にしてみた。
 涼しい、暗い、星、月、夜。
 わたしが出す音は、どれもこもっていた。
 わたしはもっと色んな音を出そうと、口に手をやった。口にはチャックがあり、しっかり端から端まで閉じられていた。わたしは手で端に下がった四角い欠片を掴み、口の真ん中まで引っ張った。そうすると、真っ黒に縮れた細かな埃のような綿くずが、息を吐く度にわたしの中から出ていった。わたしは慌ててチャックを閉めた。

 辺りを走り回った。
 辺りには柔らかいもの、固いもの、大きいもの、小さいもの、色々あったが、どれも汚れていて臭かった。欠けたり、破れたり、折れたり、割れたりしていた。ちっとも傷がなくて、汚れていて臭いだけのもあった。わたしも汚れていて臭いのだろうか。それはいやだと思った。
 わたしは一周して、わたしが置かれた場所まで戻ってきた。わたしが入っていた黒い袋はそのまま、その場所にあった。わたしは袋に近付いた。すると、袋は風にさらわれて飛んでしまった。

 わたしは袋を追いかけた。袋は汚れて臭いものの上に落ちた。わたしは苦労して、短い足で汚れて臭いものの上に上った。月明かりに照らされて、袋は緑色に見えた。わたしは袋に近付いた。袋が起き上がった。いつの間にか、袋の横に絵の具まみれの土塊みたいなものが生えていた。袋は土塊を頭の上に伸ばして、開いていた袋の口を、キュッと縛った。そして、目をぱちくりして、出っ歯の口をだらんと開けて、「びゃー」と鳴いた。そして、不思議そうにわたしを見つめた。
「はじめまして」
 くぐもった声でわたしは言った。袋はもう一度「びゃー」と鳴いた。

 月明かり綺麗。


 <二>

 あれから数日が過ぎた。
 相変わらず、この場所は汚くて臭い。けれど、大きなものや小さなものが積み重なった大きなものがあって、日差しが遮られて、太陽が嫌いなわたしには、日陰がたくさんある。

 ビャーは毎日食べ物を漁っている。あの日出会った袋とわたしは、姉妹みたいに暮らしている。毎日ビャーを、わたしが追いかける。ビャーの食事風景を見る。
 ビャーは周りにある、汚いもの、臭いものを食べる。だからどんどん汚くなる。臭くなる。
 ビャーは柔らかいものを食べる。出っ歯の口に入れて、もぐもぐ食べる。紙、もぐもぐ。布、もぐもぐ。
 好きじゃないけれど、固くて、小さいものなら、口の中に入る小さなものは、食べる。木の枝とか、もぐもぐ。
 美味しいものを食べたときは、目を細めて、口の端を上げる。
 わたしが「美味しいの?」と聞いて、ビャーが頷くから、わたしもチャックの端を開けて、それを中に入れたけれど、苦くて臭くて不味くて、すぐ吐き出した。綿もちょっと出た。
 ビャーは汚いもの、臭いものをどんどん食べる。美味しそうに食べる。どんどん汚くなる。臭くなる。
 わたしは汚くて臭いのは嫌いだから、ビャーが汚くて臭いものを食べるのを黙って離れて見ていた。気付いたのだが、わたしはお腹がすかなかった。

 なのに、急にお腹がすいた。お腹がすいた。お腹の中の綿が減ったような感じがする。ビャーの食べ物食べた。不味くてお腹ふくれない。
 わたしはわたしがわたしになった場所へ来た。わたしがビャーの中で揺られて、全体として前へ進んでいた、その方向を逆に辿り始めた。なんとなく、分かる。ビャーが付いてきた。わたしは何も言わなかった。

 前に後ろに揺られて前に進んだ道を、わたしは後ろに進む。
 あの日わたしは、彼女に運ばれてあの場所に来た。わたしと彼女は仲良しだった。彼女はわたしの頭を撫でた。抱き締めた。高い高いした。わたしは彼女の一番だった。彼女もわたしの一番だ。なので、わたしは彼女に会いたい。会ってどうするかは考えていない。
 後ろに進んで、進みきって、わたしは家のドアの前に着く。あの日、彼女はドアを動かしてから鍵を回したけれど、わたしはその逆の動作が出来ない。仕方ないので、家の裏に回る。家の中に入りたいと思いながら家の外を歩く。そしたら窓が開いているのでそこから入る。ビャーも入る。
「ただいま」と言う。
「ビャーも言いなさい」とビャーに言う。
 ビャーが「ただいま」と言うので、「ビャーは失礼します、と言うの」と言う。ビャーはびゃー、と言った。

 わたしはあの日の逆向きに、階段を上っていく。懐かしい。
 わたしが前のわたしだった時、わたしは彼女に抱きかかえられてこの階段を下りた、上った。わたしが毛むくじゃらのわたしでまだ動けなかった時のわたしを、彼女は抱きかかえてあっちこっち連れていってくれた。わたしはその内棚の上から動かなくなり、箱の中、押し入れの中に移ったけれど、彼女はまだあっちこっちに動いていた。
 わたしは彼女の部屋のドアを開ける。わたしは彼女のことを覚えているから、彼女もわたしのことを覚えている。
 わたしはベッドの中にいる彼女の頬をつついた。彼女はわたしを持ち運んでいた時の彼女より、ずいぶん縦長になっていた。わたしが動かずに彼女が動いていた頃の彼女に比べると、それ程縦長ではないかもしれない。
 彼女は起きた。わたしを見た。目を大きく見開いて、頬を細かく振るわせながら。彼女の顔をわたしが見た時、わたしの胸の中がふくらんで、綿が元気になった。夜が来て、涼しい風に当たる時より、いい気持ちがする。

 彼女が口を開け閉めして、パクパク音を立てた。
「その青いリボン……ひょっとしてミーちゃん?」
 わたしは首に巻き付いた青いリボンを見た。ずいぶん汚れてしまったけれど。ああそうだ。わたしは彼女にミーちゃんと呼ばれていた。だからわたしはミーちゃんだ。
 わたしは首を後ろから前へ動かす。これで「わたしはミーちゃんだ」と話すのと、同じ意味になる。ついでに、わたしは両手を動かせるようになったんだよ、と話すのと同じ意味で、わたしはばんざいをする。わたしは走れるようになったと彼女に分かるように、わたしは部屋の中を走り回る。

 彼女が「許して」と言った。「助けて」とも言った。
 何を許して、どう助ければいいのかわたしには分からない。ただ、わたしの胸の中がふくらんで、綿が増えて、お腹の中を元気にぐるぐる回り出した。とても気分がいい。いつの間にか、飢えを感じなくなっていた。わたしは彼女に会うと、気分がよくなって、お腹がいっぱいになるらしかった。
 そうだ、彼女の所にいようとわたしは思い立った。ここは汚くも、臭くもない。わたしは彼女を見ればお腹いっぱいになる。お腹いっぱいになったわたしは、彼女が「助けて」と言っていたから、彼女を助ける。とてもいい思い付きだ。
 わたしは彼女に話しかけた。
「助ける」
 それから、助けるには力がいるから、その力があるので、わたしは力を彼女に見せる。
 わたしは自分の影を拾って、手の中で握って、それを絨毯の上にぽい。絨毯、穴あく。
 黒くて足の短い今のわたしは、こんなことができる。他にも相手の影に潜って足を引っ掻いたり、月みたいな色の火の玉、色々。なんとなく、分かって、出来る。これなら助けられるでしょう、と言って彼女を見ると、彼女はもう寝てた。
 つまらないので、ビャーを探す。ビャーどこ行った。

 わたしは階下に行く。ビャーは臭いからすぐに分かった。ビャーはキッチンの、大きな背丈の底の丸い入れ物の中に入っている。
「何してるの」とわたしが言うと、ビャーはびゃー、と言った。

「びゃー、じゃないでしょ。何してるの?」
 ビャーはびゃー、と言って、葉っぱの切れ端を取り出した。それを口に入れる。
「美味しい?」と聞くと、ビャーはうんうん頷いた。
 ビャーは切れ端をわたしに見せる。
「いらない」
 そしたらビャーはまたびゃー、と言って食べ続けた。

 外、仄暗い。外、薄明かり。太陽、わたしの嫌いな太陽、でも平気、家の中にいるから。
 わたしは窓からの光が遮られた、影の中。あの場所みたいに涼しい風は吹かないけれど、いい。あの子がいる。お腹いっぱいになる。影がある。それに、汚くも臭くもない。
 素敵。
 ビャーがびゃー、と悲鳴を上げた。ゴトンと音がした。どっちが先だったか分からないけれど、ビャーが入っていた大きな背丈の底の丸い入れ物の向きが、小さな背丈になる向きに変わっていて、ビャーは入れ物の口の所で困っていた。
「もう、何やってるの、ビャーったら」
 わたしはビャーの泥の塊みたいな手を、我慢して引っ張った。でもビャーは入れ物に入ったまま。
「食べすぎて、お腹がつかえちゃったんだ」
 わたしがそう言うと、ビャーは悲しそうにびゃー、と鳴いた。

 ばたばたばた、おとうさん、と音がした。開けっ放しのドアの所に人間がふたり、来た。
 なんだか見覚えのある男の人と、わたしの好きな彼女が、上下、ではなく、左右、ではなく、前後に重なって見える。彼女がわたしとビャーを指差して、なにか言った。速すぎて聞き取れない。「化けて」とか、「呪いに」とか、聞こえたけれど、意味、分からない。
「ジュペッタとヤブクロンか。まとめて退治してやる」
 男の人はそう言って、赤と白の丸い玉を投げた。中から灰色の、ずんぐりむっくりした知らないものが出てきた。黄色い線が描かれた大きな胴体の上に、小さな塔みたいのが生えている。小さな塔みたいのの中に、赤いひとつ目光る。太くてたくましい腕の先に大きな手がある。けれど、足はない。
 ずんぐりむっくりした灰色の大きいものは、わたしを上から見下ろす。とても危なくて、えらそうだ。

 急にわたしは合点した。これをやっつければいい。「助けて」ってこういうこと。
 なら、がんばらなくちゃ。わたしは影を手に余るほど集めて、投げる。大きなものの胴体のど真ん中に当てる。ボオオ、と低い音がした。男の人の向こう側で、彼女が困り顔。
 大きなものをやっつけて、彼女を助けるんだ。わたしは俄然はりきった。影を集めて、いっぱいぶつける。全部当たる。当たる度に、大きなものはボオオ、ボオオと音を立てるけれど、中々やられました、ってならない。
「反撃だ、ヨノワール、シャドーパンチ」
 男の人が言う。その次の瞬間、戦ってる相手の、大きな手が黒く塗り潰されて見えなくなった。それを見たのと同時に、下から強い衝撃が来て、わたしは上に飛ぶ。
「びゃあああっ!」
 わたしは天井にぶつかって、今度は下へ。床にもぶつかって、転がる。ビャーが隣で、入れ物から出ようと暴れてた。

 ビャーがベトベトの汚い手をわたしに伸ばす。わたしはその手に触ったけれど、ビャーを引っ張って入れ物から出すなんて、出来そうもない。さっきの今でずんと疲れた。不思議だな、ついさっきまでお腹いっぱいで、なんでも出来そうな気がしたのに。体の中の綿が、しぼんでしまったみたいだ。
 彼女の声がする。首を回して、彼女を一生懸命、見た。でも、さっきみたいにお腹いっぱいにならない。綿は元気に動かずに、体の中で、もそりもそりと動く。
「ヤブクロンはあのゴミ捨て場に戻そう……ジュペッタは……」
 男の人が何か言ってる。あの大きいものに指示を出してる。

 動けない。ビャーはさっきからたくさん喚いてる。なんだろう、「びゃー」って言うだけじゃ分からない。わたしは彼女を見た。彼女は嬉しそう。なぜだろうな、わたしはやられたから、彼女を助けるのは失敗。でも彼女が笑ってるから、助けられたのかな。分からない。
 灰色の大きいものが大きい手でわたしを掴む。ビャーの手とわたしの手が離れた。
 大きい胴体の真ん中がぱっくり開いて、真っ暗闇。わたしは食べられると理解する。これも食事をする。ビャーが葉っぱ切れをもぐもぐ、この灰色のものは、わたしをもぐもぐ。

 ビャーがびゃあびゃあ鳴く。急に、ビャーを入れた入れ物にひびが入って、割れた。割れ目からビャーの手と同じ、絵の具まみれの汚いものが溢れ出して、ひびの場所から入れ物は大きく離れて、さよならした。ビャーのお腹が破れて、中から汚くて臭い絵の具まみれのものがブチュブチュ、増える。頭からもブチュブチュ、二箇所、出てくる。小さかった手は長く伸びて、固そうな、柔らかそうな、なんだか変な細長いものが引っ付いていた。
 ビャーがびゃー、と鳴いた。だいぶん声が低くなっていた。それから、手に引っ付いた細長いものをわたしを掴んだ灰色のものに向けて、そこからビャーと同じ絵の具まみれでベトベトグチュグチュの塊を、灰色のものに発射した。その塊は見事灰色のものに命中して、わたしは大きな手からポロリと落ちた。
 ビャーはベトベトの手でわたしを抱いて、戦いの相手と男の人と彼女の横を走って、ドアから外へ出た。ビャーがぶつかるとドアは入れ物みたいに、ひびが入って壊れた。

 ビャーはそこから、前向きに走った。わたしとビャーが出会った場所へ、ズルズル音を立てて進む。道行く人が、目を見開いて、わたしとビャーから逃げる。皆顔を引きつらせて、逃げる。それを見ると、わたしの中の綿が元気に動き出す。
 わたしはビャーの手の中で起き上がる。
「ビャー」
 ビャーはわたしを見て、びゃー、と嬉しそうに鳴く。
 わたしは首に絡んでいた青いリボンを、ぽいっと捨てた。


 <三>

 幾星霜、と言うのかもしれない。そのくらい長い年月が経ったような気がする。
 わたしとビャーは、出会ったあの場所に、そのまま住み着いている。ビャーはその辺りにあるものを食べる。わたしはお腹がすいたら、町に行けばいい。わたしに出会った人は、あまりの臭さと汚さに、恐れおののいて逃げるから、その感情を食べればいい。人が笑っても食事は出来ない、とわたしは知った。

 わたしたちは、汚くて臭いものの山に登って、涼しい風に吹かれて、月を見る。
「ビャー」
「びゃー?」
「ビャーはわたしの一番よ」
 ビャーは首を後ろから前へ動かす。ビャーがびゃー、と言ってわたしに笑いかける。

 月明かり綺麗。
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