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遠い背中
 自分の体が光に包まれる。
 自分の内側で眠っていた力が目を覚まし、心臓から血と肉を巡って手足の隅々にまで溢れてくるのを、スーははっきり感じた。

 思わず雄叫びを上げる。腕は長く爪は鋭くなり、地面から離れた。後ろ足は自分の体を支えるように、太く固く骨と筋肉がメキメキと音を立てて成長する。
 丸かった顔は細く伸び、幼年から大人の顔つきになった。頭の房毛が深紅の毛を茫々と湛えた自分の背丈程もある鬣へと変化する。背丈もぐんと伸びた。

「進化おめでとう、スー」
 トレーナーのレンリが、祝福の言葉をかけた。スーは彼女の方を振り返って、

「あ……」

 伸びた背丈。急に開けた視界の下の方に、レンリの姿。
 今までは見上げることしかなかった彼女の姿が、思いがけない場所にあって、戸惑う。

 レンリはスーに手を触れようとはせず、目を伏せて、
「母さんに似てる」
 そう小さく呟いた。



 悪タイプには月夜が似合う。
 というわけでもなく、ぐれたわけでもなく、ただなんとなくスーは月の下にまろびでてきていた。その心には、今日あったこと。

 進化、したのは嬉しいんだけど。

 自分の視界についていけない。急に小さく見えた彼女に、何故だかいつも通りに接することができずにいる。
 世間的にはまだ“女の子”の括りに入る彼女と、同種族の平均よりも大きい自分の体。レンリが小さく見えるのは、普通のことなのだけれど。

「はあ」
 思い当たる問題点について考える前に、ため息が出る。
「どうしてだろう」
 自分ではどうすればいいか分からない。
「なんか僕、レンリに避けられてるよ……」
 スーはすっかり困って、月を見上げる。
 けれど、少しだけ欠けた真っ白な月は、答えを教えてはくれなかった。

 次の日も、その次の日も。
 レンリとはぎくしゃくした日々が続いた。
 普通にバトルもする、指示も出す。勝利すれば褒める。たまに負ければ慰める。
 一応トレーナーとして通り一遍のことはやっているが、スーに触れてくれない、目も合わせてくれない。
 スーには原因が分からなくて、夜な夜なお月様に問いかけてみるが、月は答えを返してくれない。どんどん欠けていって、さっさと雲隠れしてしまいそうだった。

「どうすれば、いいんだろう」
 爪で触れば折れそうな程、細い月に語りかけた夜のことだった。

 どん、と重いものが鬣にダイブしてきた。ふさふさした鬣が衝撃を吸収する。が、それでも乗っかかられた頭が痛い。こんな乱暴な現れ方をするのは、スーの知る限り一匹しかいない。
「あんたねえ、お月様に合わすと寝る時間がどんどん遅くなんのよ。隈ひどいわよ」
 案の定、頭の上から降ってきたのは聞きなれた高い声、“おや”を同じくするチラチーノのグンの声だった。
 グンはするりとスーの頭から降りて、彼の隣に座った。スーはただ黙って、小さな灰鼠が何か言い出すのを待っていた。

「あんたさあ」
 灰鼠が口を開いたのは、夜よりも朝の方が近くなってきてからだった。
「レンリになんか遠慮してる?」
「してないよ」
 スーは慌てて答えたが、その声には動揺が含まれていた。グンは、はあ、と聞こえるようにため息をついて、スーにこう言った。

「あのね、レンリがあんたに遠慮してるのは分かってるの。レンリに原因があるって、あの子は自分でも分かってるのよ。それでね、あんたまで遠慮してどうすんのよ。自分から目を合わせればいいじゃない。ボディタッチもやりたきゃ自分からやりなさい」

 じゃあね、と灰鼠は長い尻尾を振って去っていく。スーは明るくなる一方の陽光に照らされて光る灰色の毛並みを眺めながら、グンの言葉を頭の中で吟味していた。

 目を合わせればいいじゃない。
 そんなこと言われたって、合わないんだ。僕の方が背が高い、彼女は俯いてばかりなんだから。

 自分から触れればいいじゃない。
 そんなこと……だって。
 スーは自分の腕を見る。太く逞しくなった腕と、その先に付いている鋭い紅色の爪を見る。そして、小さな彼女を思い浮かべる。小さく華奢な女の子を思い浮かべる。
 だって、彼女に触れたら……

 壊してしまいそうじゃないか。



 昼日中。太陽を仰ぐわけにはいかないから、スーは地べたに座り込んで、青い空と白い雲を仰いでいた。牧歌的な景色。空はあんなに晴れ渡っているのに、心の中のもやもやは消えない。
「はあ」
 進化してから、何度目かのため息が漏れる。グンのアドバイスをもらってから、幾度もレンリに触れようとしたが、駄目だった。
 細い肩も、小さな頭も、背中も、腰も、腕も、手も、頬も。自分の手を伸ばす度に、その先に付いている爪に自分でおっかながって、引っ込めてしまう。
 ため息をついてばかりのスーの背中に、何か軽いものがポスン、と寄りかかった。

「スー」
 その小さな声は、大事な彼女のもの。聞こえてるよ、と返事をする。
「スー、進化したら母さんに似てきた」
 進化したら、同じ種族になるし、それにやっぱり親子だもの。似てくるもんなんだねとスーは返事をする。
「こんな風に、母さんによく甘えてた」
 スーは何も言わない。何も言えない。
「スーは、きっと怒ってるよな」
 ……。
「私の所為で、母さんが」

「私がスーの生活に割り込まなければ」

「私がいなければ、スーの母さんが、あんな風に」

 そっと座る位置をずらして、背中の鬣をレンリに押し付けた。鬣を通して感じる、軽い負荷。
「ごめん。母さんのこと思い出すから、見ないようにしてた」
 許して。最後の言葉は涙に混じって、スーには聞こえなかった。
 ふと背中が重くなって、レンリが鬣に体重を預けたのが分かった。それでも、とても軽いとスーは思った。

「別に、怒ってないよ」
 スーは答える。
「レンリがいなかったら、確かに僕は今でも母さんと暮らしてたかもしれないけど」
 スーは人間の言葉が分かるけれど、レンリにスーの言葉は分からない。言葉にしたところで伝わることはない。
 でも、言葉にしておかなければ、消えてしまいそうな気がする。
「レンリと一緒に暮らしてたことも、レンリと今いることも、全部大事だから、なかったらよかったなんて、言えないよ」

 レンリはまだすすり泣いている。
 いくら言葉を積んでも届かない。背中越しの、背中合わせの距離が、遠い。

「ごめんレンリ。レンリだって母さんいなくなって寂しかったろ。僕が兄ちゃんだからしっかりしなきゃいけないのにな」

 スーは不意に振り向くと、そうっとそうっと、レンリの体を傷付けないよう、腕と手の平で抱きとめた。

 腕の中の小さな背中が、スーにはとても遠かった。
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