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狐の子〜後編
 花屋の店先にあった鉢植えから名前を貰った。
 最初は、雷文こども園にあった桜という花の名にしようかと思っていた。カントー地方の辺りでは、桜は門出の季節を象徴する花らしい。門出、という言葉の響きが希望に溢れていて私は好きなのだ。けれど、桜の白に近い桃色は彼女に合わないし、店先にあった蝶々のようなその花は綺麗な赤で、しかも花言葉が門出だというので、そちらの花を選んだ。
 その花から三文字、譲り受けた音を指文字で示すと、彼女は大喜びで私の真似をした。それが貴女の名前だと示すと、気に入ったのか、すぐに受け入れた。

 それから、小学校への入学手続きをした。公教育なので役所に行って資料を貰い、小難しい紙束に諸々の必要事項を記入した。誕生日? 分からないから適当に記入しておく。

「母さん、見て見てー」
 はいはい、と適当に返事して彼女の方へ行く。最近、彼女はパソコンに夢中だ。ドレッサーに置いてあるパソコンは、すっかり彼女のものになっている。
「これ、作ったの」
 パソコンの周囲はいつの間にか、得体の知れないコードが大量に発生して、にわかに金属製のジャングルに迷い込んだようになった。買った覚えのあるようなないような、記憶の曖昧なコードとか何とかが、つながれたりどこかから生えていたり、使われてないのは積まれていたりする。
「これ、これー」
 そのジャングルの奥で、娘は楽しみでたまらないという風に、足をジタバタさせる。

 彼女が椅子から退いたので、コードをどかしながら、私が椅子に座る。正面のブラウン管には、音楽を再生した時に出てくるような、音の大きさを示すグジャグジャとした線が描かれていた。
「再生ボタン、押して」
 彼女の顔にワクワクという文字が書かれているのがはっきり見えた。こちらは入学の手続きの他に、拾いっ子だから他にも色々書かなきゃいけないのだけれど。「ちょっとだけね」と伝えてから、画面の中の三角ボタンをクリックした。

「か、あ、さ、ん、び、つ、く、り、し、た」

 スピーカーから飛び出してきたのは、聞き慣れたカセットテープの女性の声だった。
 一音ずつ区切るような音の羅列に、感情や抑揚はない。しかし、発された音の列は、確かに言葉のまとまりを成していて、なおかつ、それは今まさに娘が思っていることなのだ。
「ねえ、すごい?」
 娘がコードの中から、笑顔で私を見上げる。そしてやにわに体を伸ばして私の前に出ると、拙い手付きでキーボードを押し始めた。「ねえすごい」画面上部の白い四角の中に、のっそりと文字が現れる。

「ね、え、す、ご、い」
 ブラウン管の中の文字がそのまま、音になってスピーカーから現れた。

 言葉を作ろうと上げた両手が、そのまま膝に落ちた。
 どうやったのだろう。どういう原理だろう。前に見たパソコン、とやらで学んだ技術だろうか。辛くなかっただろうか。聞きたいことは山程あるはずなのに、上手く頭の中でまとまらなかった。

 ただひとつ。私はマウスカーソルを上にある白い四角の所まで動かし、そこに文字を入れる。そして、エンターキーを押した。
「す、ご、い、よ」私の入力した文字も音になる。
 彼女を抱き上げて、高い高い、とやる。彼女が喜ぶように。褒めてるんだ、と分かるように。私の喜びが伝わるように。

 ぱっと彼女が笑った。花が咲いたみたいだった。


 それから、入学手続きを終えるまで、随分と慌ただしかった。過ぎてみてはじめて、それがひと月も経たぬ間のことと知る。もっと長い間のことのように感じていた。驚きだった。

 一番驚いたのは、娘の手話の上達の速さだった。彼女が作った音声プログラム――最初に貰ったカセットテープの後ろにあった、あいうえおの音声群を利用したらしい。それにしてもどうやったのやら――と私の手話、両方を合わせてやれば呑み込みやすかったらしく、ひと月の間に私との会話が支障ない程にまでなっていた。ただ、彼女は語彙不足か、かなりの語を指文字で表す癖があった。構わないが、たまに、速すぎて見えない。
 それからこれも驚いたことに、娘は平仮名が読めるようになっていた。なんでも、カセットテープの目次と音声を照らし合わせて、頑張ったのだそうだ。書く方はからっきしだが、それも学校に通い出せばすぐ覚えるだろう。何より彼女と会話らしい会話が出来るのが、楽しかった。
 それから時々、娘と息子を連れて、職場に出るようになった。元々が緩やかな職場だし、子どもを連れていくと何かと皆喜ぶ。娘も息子が一緒なら、それ程周囲の人間が気にならないらしかった。息子は娘と仲のよいポケモン、ということにしておいた。「ゾロアなんて珍しいね」と言われたけれど。そうして放っておくと、勝手にモニタの向こうで繰り広げられるバトルに夢中になっているから、子守が楽だったのである。何度かバトルビデオを借りて帰ったりもした。

 そうして過ごしていると、九月の入学式が待ち遠しくなってきた。手続きは終えた。背負う型の鞄を買う。彼女の服を買い足す。背も伸びた。体に悪いからと、料理本を買ってきて、食材を買い揃え、慣れぬ料理などしてみる。鍋の中で水が煮えてゴトゴト言うのが面白い。今まで茶色のポケモンフーズしか入っていなかった冷蔵庫が、野菜の緑や赤で色鮮やかになった。一度など、ヒウンアイスを食べにヒウンシティまで出た。結局お目当てのヒウンアイスは買えなかったものの、画廊やらゲームの制作会社やらを見て回ってご満悦のようだった。
 月日の過ぎるのが、本当に目まぐるしい。前に住んでいた部屋が手狭になったので、もっと広い部屋に引っ越した。家具を入れる前の、本当にだだっ広い、何もない部屋で、紅色の髪飾りを付けた娘が嬉しそうに跳ね回った。
 部屋に家具や家電を運び込むと、一気に部屋の体積が減ったように感じられた。それでも、前より十倍ぐらい、広い。彼女の学習机を置いても、まだまだスペースがある。

 そのスペースで、娘と息子が鬼ごっこに興じていた。すばしっこい息子を捕まえるのに苦労しているらしい。なかなか息子を捕まえられない娘が、最終手段に出た。
「ご飯だよ!」
 油断してのんびり歩いて出てきた息子を捕まえた。
 それ以来、ご飯が出来ても鬼ごっこが終わらず、ちょっと困っている。





 そうこうしている内に、九月がやってきた。
 門出の季節。
 私は娘の手を引いて、門を通る。
「ライモン第一小学校入学式」と白地に黒で書かれた看板を見る。
 たった半年なのに、長い道のりを乗り越えてきたかのような、妙な充実感があった。そして、彼女はこれからここで、私の知らない時間を送るんだな、という寂しさも。

 矢印に従って、体育館に入る。前が新入生の席、真ん中が在校生、後ろが父兄の席だ。
 行ってらっしゃい。心の中で声を掛ける。それから、自分にも。
 私が寂しがっちゃだめ。この子はこれから、人の中で、人らしく生きなきゃならないんだから。

 最前列の、折り畳みのパイプ椅子のひとつに彼女を座らせ、「しばらくいい子で座ってるのよ」と手話で伝えた。それから、
「後で迎えに来るからね」
 それも手話で伝える。前に孤児院で置き去りにした負い目があった。忘れているといい、と思うが、忘れてないだろうな、と思う。
「約束だよ」
 娘の指文字に頷いて、私は父兄席の最前列に座った。娘は振り返ってはいるが、割りと平気そうな顔をしている。毎日のように職場へ連れていったのが効いたらしい。

「かわいいお子さんですね。お名前は?」
 隣に座った婦人が尋ねる。しかし、私が話せないと分かると、さっと目を逸らして、彼女は別の人と話を始めてしまった。私は黙って、前に座る娘を見ていた。

 娘が時折、振り向いた。
 入学式が始まった。

 式の段取りは、こういうことに疎い私でも、「ああ、ありがちだな」と感じるものだった。校歌斉唱があって、在校生の挨拶があって、その後に校長や来賓の眠たい長話が延々続くというもの。式が進むにつれて、前に座るチビどもの落ち着きがなくなっていく。椅子の背に手をやったり、あからさまに横を向いたり後ろを向いたり。さっさと終わらせればよいものを。人間生活の好きな私にも、これはだるい。隣の婦人は船を漕いでいる。
「では、――議員からの祝電です」
 長話が終わったかと思うと、これだ。入学おめでとう、学校生活がよいものでありますように云々、という文面を読み上げ、終わりかと思えばまた次の祝電を読み始める。その文面も最初のと同じ、所々の言葉を置き換えたものである。以下同文で、よくないか。娘が座面に膝立ちになり、真後ろを向いている。

 と思いきや、娘は椅子を降り、小さな歩幅でトントンと走ってきた。新入生の横を通り、在校生の横を通り、半泣きの顔で私の前に来ると、膝の上に座った。まるで私が椅子で、この椅子に座ります、というような自然さだ。隣の婦人が起きた。
「では、次の祝電です」
 こんなことはよくあるのか、前に立っている人は平然と祝電を読み続けている。周囲の親たちがチラチラと私たちを見ている。さっきまでの泣き顔はどこへやら、娘は膝の上でケロリとしていた。


「これにて入学式を終わります」
 その言葉が終わると同時に、式場となった体育館の空気がふっと緩んだ。
 新入生たちがポツポツと、それぞれの親の元に戻ってくる。しかし、親の方へ行かない子もいた。観察してみると、別に親が来ていないわけではなくて(そういう子もいたが)、もうひとりでも平気だよと背伸びできる子ららしい。
 膝の上の我が娘は、周囲のそんな様子はとんと気にならない風である。それどころか、他の連中より早く母親の近くにいられてラッキーぐらいに思っているのが察せられた。

 私は彼女を突ついた。
「この後、教室でクラスの挨拶があるけど、大丈夫?」
 彼女は膝の上で、ゆらゆら上体を揺らしながら答えた。
「大丈夫だよ」

 大丈夫ではなかった。
 四十分弱のクラス会の間中ずっと、娘はべそをかいていた。
 担任の先生の挨拶が終わるまでに一度立ち上がり、「さっきの入学式で校長先生が言った三つの大事なこと、覚えてるかな」という先生の問いに早熟な子どもが答え終わるまでにもう一回、クラスの子どもの自己紹介の番が回ってくるまでにさらに一回立ち上がって、後ろのロッカーにもたれている私の所までやってくる。流石に三度目ともなると、同じくロッカーに張り付くようにして並んでいる母親たちも苦笑の類を隠さなかった。

「じゃあ、カミサカさん。そこでいいから、自己紹介してくれるかな」
 教師は流石に苦笑を漏らさなかったが、眼鏡の奥の目が、固い。娘は教師を一瞥して、再び私の服に顔を埋めた。視線が私たち二人に集まる。娘がますます萎縮する。
 仕方なく、私が代わりに、出来る限りの笑顔で、明るく元気よく、指文字で彼女の名前を示した。しかし、周囲は困った顔をするばかり。
「先に、後の子の自己紹介しようか」
 先生が机の群れに目を移した。娘の後ろの席に座っていた子どもが指されて立ち上がる。ボソボソとした自己紹介からも、恬淡とした自己紹介からも締め出されて、私はひとり、娘の背中をさすり続けていた。


 枕元の時計が、両方の針をほとんど真上に上げていた。
 フローリングの床に直に敷いた布団に肘を付き、頭を支える格好で考え事をしていた。娘は勝手に私の髪にじゃれついて、勝手に眠っている。娘が懐いてくれるのは、素直に嬉しい。しかし、これが果たして正しき人間の母娘のあるべき姿かと考えてしまう。
 娘はあの日、私を「母さん」と呼んだ。それからも、私を「母さん」と呼んで慕っている。けれど、本当に母親だと思っているのだろうか。餌付けしたポケモンが懐くように私に懐き、他に呼び方がないから「母さん」と呼んでいるだけなのではないだろうか。

 背中に手を回し、娘に触れる。
 彼女は人間を恐がっている。施設で恐い目に遭ったのだろう。娘は人を恐がり、私を好いている。それも多分、人間ではないから、という理由で。
 娘を潰さないよう、娘から離れる方向に、寝返りを打った。それでもなお、私に寄り添おうとする娘の肩を抱き、髪に触れる。何故こんなに小さな肩なのだろうと、胸を締めるような感情と共に、答えの必要ない疑問が吹き上がる。

 半年だ。私の口からため息が漏れた。半年。今度は三日ではない。また孤児院に捨てに行けるのか、と自分の胸に問うた。

 無理だ。

 考える間もなく、自分の中から答えが返ってくる。彼女に、人間の中で育ってほしい。けれど、人間を恐がる彼女を傷付けたくない自分がいる。いや、それ以上に、半年間一緒に過ごしてきた彼女を手放したくない自分がいる。浅ましいことだと、分かっているけれど。
「あったかい」
 隣で眠る娘が口にした。寝言のようだった。


 入学式から一ヶ月も経っていなかった。いや、もたなかった、と言う方が適切だろうか。
 息子を布団の中から引きずり出し、不服そうな顔をする彼に変化の特訓をしている時にチャイムが鳴った。
「出れば」
 息子が言った。前からあまり変化の練習をしたがらない息子ではあったが、最近はとみに練習に不熱心な様子を見せていた。
 私の気遣わしげな視線を避けるように部屋の隅に行くと、もう一度息子は「早く出なよ」と言った。息子から視線を外し、ドアに向かった。誰だろう、知らない匂いだ。

 魚眼レンズを覗く。
「すいません、娘さんの担任をしております、コウノと申します」
 冴えない眼鏡の男が、レンズの向こうから話しかけてきた。ドアを開いて、やっと記憶が蘇った。入学式の日、教壇に立っていたあの教師だ。
 どうぞ、と部屋の中に招く。すいません、と悪びれる様子もなく靴を脱いだ。造り付けのキッチンがある廊下を通り、居間兼寝室兼娘の勉強部屋となっている広めの部屋に入る。布団の一ヵ所が、仔狐でも入れてあるみたいに膨らんでいる。
 もう昼過ぎなのに上げていない布団を咎めるように見た後、教師が私に視線を移した。どうぞ、と言う代わりにちゃぶ台の横のクッションを指し示す。それから腕を上げようとした私を遮るように、教師が手の平を向けた。傍らの味気ない黒い四角の鞄から、メモ帳とペンを取り出す。
「何かあれば、これに」
 ちゃぶ台の上を滑らせるようにして紙とペンを寄こすと、教師の男はクッションの上に正座した。私が居心地悪そうに向かいに横座りしたのを確認してから、彼は話を始めた。

「娘さんのことですが」
 お茶を出さなかったのに、彼は長々と話した。曰く、
 学校生活に適応できていない。
 クラスメートに暴力を振るう。
 落ち着きがなく、授業中でも頻繁に教室を出ていく。
 叱ればしばらくの間よくなるが、すぐに問題行動を起こす。
 質問に答えない。
 宿題をやらない。
 筆談と通じない手話では、相槌もろくに打てない。男は一方的に話すだけ話して、「養護学級に入ることも考えたらどうでしょうか」止めを刺すようにそう言い置いて、席を立とうとした。
「ああ、すいません、それ」
 男は私の手元にあったメモ帳とペンをひったくると、「では」と言って逃げるように部屋を出ていった。一応、部屋の出口に立って見送りをした。申し訳ないと思っているのか、男は俯いて、早足でマンションから去っていった。

 扉が閉まる音。と同時に、ため息が漏れた。
 部屋に戻り、落ちるようにクッションに腰を下ろした。さっきの教師の匂いが、プンと匂った。クッションをお尻の下から引きずり出してはたく。布団の中から息子が顔を出した。
「どうすんの?」
 どうもこうもないわよ、と私は答えた。

 外に出ていくらも経たない内に日が落ちた。つい最近まで夏で、日が長いと思っていたのに、季節の巡りというのは存外早いものだ。
 秋風の中に鼻を突っ込み、匂いを探した。あの子はどこだろう。寄り道は構わないけれど、それにしても遅い。背の高いマンションに両側を挟まれ、遠慮がちに街灯の光を受けている、狭い道を進む。いつもなら探さないかもしれない。教師が来たからかもしれない。住宅街を抜けて、食堂やレンタルビデオ屋が並ぶ大通りに出た。
 金木犀の独特な香りが鼻につく。いい香りではあるが、強く匂いすぎて欝陶しい。一様なあの香りの中に、娘が攫われて見えなくなってしまいそうな、そんな嫌な気持ちがした。
 月が掛かり、一番星、二番星と、空をペン先で突ついて付けたような光の点が見えるようになっても、娘の香りは感じられなかった。昼の火照りから冷めたような夜の中で、金木犀の香りは弱まるどころか、活き活きとして、より一層強まったように感じた。
 匂いの海の中を泳ぐように、私は娘の姿を探した。人の匂いはやたらするのに、その中に娘の香りが見当たらない。私の探索を邪魔するように、金木犀と他人の匂いばかり付きまとう。北の公園に行った。やはりするのは花の香りだけで、娘はいなかった。
 どこにいるの、もう! 心が刺々していく。学校でも上手くいかなくて、親にも心配かけて。明かりを落とした店のショーウィンドウに、紅色の髪の、しかめ面をした女性の姿が映る。鬼婆のような面相に、自分が驚いた。勤務時間を終えたマネキンに向けて口の端を伸ばし、無理矢理笑顔を作った。少しだけ心が落ち着いた。深呼吸して、また歩き出す。肺の中に金木犀の匂いが入った。大通りを進む。金木犀の香りが強くなっていく。

 あ、と小さな声が漏れた。微かな、愛おしい、柔らかな香り。通りがかった人に怪しまれないよう、速すぎない程度に、駆け足になる。今朝嗅いだはずなのに、懐かしい。進むにつれてはっきりとした輪郭を示し出すその香りが、強張った私の心を安堵の情で緩めていく。ふーっと長い息を吐いた。もう金木犀の匂いも気にならない。二階の自室の前まで跳び上がりたいのを押さえて、マンションの階段を一段ずつ、登っていく。
 ドアの前に娘がいた。膝を抱え、体育座りの姿勢でうずくまっている。ちょっと草の匂いがした。そっと肩に手を置く。反応がなくて、肩透かしを食った気分になったけれど、それでも我慢強く、娘が応えるのを待った。
 十秒ぐらい、待っただろうか。娘が膝にくっ付けるように俯けていた顔を、ノロノロと上げて。娘と目が合った私は、思わず小さな悲鳴に近いものを上げた。

 まるで骸骨みたいだ、と思った。娘の目は異常に翳り、頬は健康的なピンクで、目の下に隈もなく綺麗な肌で、目だけが穿ったみたいに暗くなっていた。どれだけ明るい光の下に出しても、目だけは電気を消し、カーテンを引いた部屋の中みたいな暗さを保っているだろう。目だけが絶対的に暗かった。

「おかえりなさい」の手話を手早く済ますと、私は娘を抱えるようにして部屋の中に引きずり込んだ。そんなことをされても、娘は表情ひとつ変えなかった。暗い目で、自分の体の内側を覗いているようだった。
「どこに行ってたの?」
 返事はない。意識の半分を娘に囚われて、片手間に食事の用意をした。冷蔵庫にあるものを食べさせ、とにかくひと息ついた。何かに意識を囚われながらご飯を食べる娘を、これまた意識を何かに囚われながら、私が見つめていた。

 ご飯が終わると、娘はきっちり正座して両手を膝の上で結んだ。不意に時計の秒針が大きな音を立てて動き、怒られるのを待っているのだと気付いた。私は何故か口を開き、言う言葉が見つからずに口を閉じた。娘と向かい合って、その場に張り付けになったように止まっていた。当然、手話の為に腕を上げることも出来なかった。
「どこに、行ってたの?」
 やっとのことでそれだけ伝えた。娘が顔を上げ、私を見る。目は相変わらず暗く、生気がなかった。
「……森」
 たっぷり時間を要して、娘はその単語だけ喋った。森? この近くに森はひとつしかない。
「まさか、東の森に行ったの?」
 街の東にある森。私の故郷でもある。行くなと言ったことはないが、野生のポケモンがいて危なかったはずだ。
「ポケモンが襲ってこなかった? 大丈夫だった?」
 娘はコクリと頷いた。あの辺りで危ないのは悪猫だ。会わなくてよかった、と胸を撫で下ろした。運がよかったらしい。
「でも」
 娘が呟く。顔を床に向けていた。
「なんでもない」
 娘が立ち上がった。

 お風呂に入ると人心地がついたようで、娘はまたいつものように私にじゃれ付いてきた。それでも元気がないのが分かったので、さっさと寝かせることにした。彼女の夜色の髪にドライヤーを当てて乾かしてやり、ブラシでさっと梳かす。娘に歯を磨かせている間に、私は自分の髪を乾かした。寝る前の儀式のようなものをひと通り終えると、彼女を布団の中に追い立て、私もその隣に寝転んだ。

 布団の中に入った娘が言う。
「母さん。母さんはゾロアークだよね」
 そうよ、と私は答える。
「母さん。私は母さんの子どもだよね」
 そうよ、とまた私は答えた。娘が笑みを浮かべた。やっと瞳に生気が戻ってきた。

 娘の言いたいことを、私はちっとも理解していなかった。





 椅子にもたれていると、肩を同僚に突つかれた。
「ぼーっとしすぎ」
 いたずらっぽくウインクして、同僚は湯呑みを並べた盆を抱えて去っていく。
 その後ろ姿はどこか嬉しそうだった。例えば地面から踵が上がる速さ。例えば歩調に合わせて揺れる、湯呑みの中のお茶に注ぐ視線。私は楽しそうな同僚から目を離し、顔を上げて、モニタを視界に入れる。カナワタウン行きの車両の、二両目だった。

 座席の下に、茶色の缶が置いてある。テレビのコマーシャルで何度か見たことがある。有名なバッフロン印の缶コーヒーだ。

 誰かが捨てていったそれが、車体が揺れた拍子にカタンと倒れる。タタン、タタン。電車が揺れるリズムに合わせて、車両の端まで転がった。ドアの所でぶつかって止まる。そしてまた転がる。ドアの所まで行って、また止まる。

 モニタの中で延々と往復運動を繰り返す空き缶を見る。
「森」
 昨日の娘の言葉が、虚ろな目が蘇った。
 東の森。私の故郷、迷いの森。
 どこか諦めたような、不貞腐れたような、見上げてくる息子の目。

 空き缶がまた転がって、座席の下に入り込んだ。車内カメラにマイクは付いていない。しかし、無音のままあちらからこちらへ行く茶色の缶が、アルミの円筒を共鳴させて、ゴロゴロと低い音を響かせている。幻のその音が、耳について離れなかった。

「森に行く話、どうなったの」
 娘を拾った。だからそれどころではなくなった。その時は、それが真実だった。けれど今は、娘が息子と楽しく遊んでいるからと、娘を言い訳にして息子から逃げていた。

 いつまで経っても変化が上手くならない息子。早く森にやらねば……森で暮らす術を身に付けなければ、この先あの子は街でも森でも生きていけなくなる。
 なのに、なんで娘が先に森に行ってしまったのだろう。
 上手くいかない。あの子がさっさと森で暮らすことを承知しなかったから手遅れになったのだ、とも思う。半端に街暮らしなどしたものだから、息子は森に行きたがらなかった。私の所為? 私の所為ではない? じゃあ息子の所為? その息子を育てたのは誰?

 空き缶が勢いよく、車両の前から後ろへ転がっていった。カナワに着いてドアが開いたけれど、誰もその空き缶を拾わなかった。


 仕事を終えて部屋に戻ると、誰もいなかった。
 娘は学校に通っているから、当然いない。息子もいなかった。

 床に崩折れるように、座り込んでいた。
 森に行ったのだろうか、街に出たのだろうか。探す気も起きなかった。
 もうどうにでもなってしまえと投げ遣りな気持ちになった。森でも街でも暮らせない厄介者がいなくなって、清々したじゃないか?
 捨てられた缶が、心の端から端まで転がって、不愉快な音を立てた。
 昨日、コウノと名乗って部屋に上がってきた男性の顔がちゃぶ台の向こうにちらついた。娘さん、学校で上手くいってませんよ。娘の順番を飛ばした自己紹介。暗闇を溶かし込んだ目。息子の詰るような目が重なった。母さん、どうして、どうして。

 どうして上手くいかなくなったの?
 どうして森で生きてかなきゃいけないの?
 どうして街で暮らさなきゃいけないの?
 息子の目、娘の髪、車両に捨てられた空き缶の音……

 いつの間にか眠っていたらしい。肩を叩いた娘が、少し驚いたように目を丸くして私を見る。
「母さん、疲れたの?」
 私を気遣いながらも、何かに気を取られ、上擦っている娘の声。その腕の中に息子がいた。

 起き上がる私の一挙一投足を見守る娘の目は、真ん丸に見開かれ、私の皮膚の下にある何かを注視しているかのようだ。その腕の中で、息子は居心地悪そうに横を向いていた。けれど、横目に私を見る息子は、逃げを打つような、そのチャンスを窺うような表情をしていなかった。挑むような、相手の隙を見つけ出そうとするような、そんな目だった。
「あのね、母さん」
「なあ、母さん」
 娘と息子が同時に喋り出した。
「スーをね、学校に連れてったの」
 娘はそこまで言い終えると、「だめだった?」と言う代わりに上目遣いで私を見た。
 ポケモンを学校に連れていくことは禁止されていないはずだけれど。私が黙っていると、今度は息子の方が口を開いた。
「兄ちゃんが見てれば、こいつもちゃんと授業受けるし、それに、他の子を叩きそうになった時も止められるからさ」
「あのね」
「だからさ」
 また娘と息子の声が重なった。

「これからも、スーと学校行きたい……」
「僕さ、こいつの手持ちになるよ。そしたらずっと一緒にいられるだろ?」
 第三の選択。

 すぐには答えを出さなかった。
 夜、いつものように娘と息子と隣り合って床に就き、目覚ましをセットして、それから眠気が来るまで悶々と考え続けた。

 誰かの手持ちポケモンになる。私はあまり好きではないが、それもポケモンとしてのひとつの在り方だし、選択肢である。けれど。

 いつものように、髪にじゃれついて眠る娘と息子。

 この子たちを兄妹のように育てた覚えはない。息子の方が兄だと言ったのは、あくまで比喩的なものだ。だが、その言葉が今になって足枷のように纏わり付いてくる。兄をモンスターボールに入れて、妹の所有物として振舞うのだ。それは兄妹と言えるのか?
 いや、この子たちは兄妹ではないのだ。レトリックとしての兄妹に過ぎない。偶然ひとつ屋根の下に居合わせた、仲のいい人間とポケモンの組み合わせ。だから、ポケモンの方がモンスターボールに入ったって、何の問題もない。仲のいい人間とポケモンの関係として、それは自然なことだから。兄妹のように仲良く育った人間とポケモンの関係として、当然あり得るものだから。

 でも。時計の針がカチリと鳴る。

 私にとっては、どちらも大事な子どもなのだ。





 日々はつつがなく過ぎた。
 娘は結局あの後問題を起こし、養護学級に入れられる羽目になった。
 しかし、養護学級は予想していた監獄みたいな学級ではなく、普通学級よりも却って開放的で緩やかな所だった。先生もおおらかで優しい人らしく、娘も養護の先生と言って懐いていた。
 冬休み前の三者面談の時、はじめて養護の先生に会った。彼女は太っているわけではないが、頬が丸みを帯びていて、おどけたような、それでいて和やかな雰囲気を醸し出す人だった。娘はいつものようにゾロアを膝に抱き、足を前後に揺らしている。養護の先生はいたずらっ子みたいに娘の方にウインクしてから、私に向けて話し出した。
「校則には、親が所持しているポケモンなら連れてきていいって書いてあるらしいですよ。まあ、野生の子と仲良くなっちゃったんなら仕方ないですよね、子どもですし」
 そう言って、彼女は笑った。
 彼女は暗に、スーの所持を明確にしてモンスターボールに入れなくてもいいと言ってくれているのだ。
 仕方ないですよね。スケッチブックから取ってきたのであろうA4判の紙にそう書いて、私も笑った。
 養護の先生は、私がゾロアークだなんてことは知らないはずだ。けれど、子どもを見つめて物事を決める彼女の、顔と同じく平和的な印象を与える物言いは、言外に私たち家族がそのままでいいと言ってくれているようで、私は感謝の念に近いものを感じたのを覚えている。

 面談に使ったA4の白い紙は、彼女と私の間で色々な書き付けがなされて、面談の最後に私に手渡された。ふゆやすみに本をいっぱいよんでみよう、という先生の書き込みや、「はい」というそれだけでは何のことか分からない私の文字、娘の落書きなんかが、その紙の隅々まで広がっている。娘と私が下手くそなゾロアの絵を並べて書いていて、その上に先生の丸い文字で「ゾロアはめずらしいポケモンだから、わるい人にさらわれないように気をつけてね」と書いてある。そのさらに上に、鏡文字で「きをつける」と書いてある。家に帰って、その紙を広げて、家族皆で笑った。

 冬が終わり、春が来ると、再び学校が始まる。冬休み最後の日、家族皆で近所を散歩していた。
 去年の寒の戻りはきつかったけれど、今年はそうでもない。むしろ、暖冬だった。そこまで考えて、私の目は引き寄せられるように娘の方に動いた。少し、背が高くなった。私の腰までしかなかったのに。去年の今頃のことだったと思い返す。
 娘は私の手をしっかり握っている。つないでいない方の手を、娘は空にかざした。その先に、裸ん坊の木が並んでいる。チラホラと春の芽吹きを付け始めた、桜並木だった。
 並木に囲われるように作られた塀に「雷文こども園」の文字を見て、体が縮こまる思いをした。急に寒風に吹かれたように背を曲げた私の隣で、娘は何気ない調子で「桜が咲いたら見に行こうよ」と言った。娘に許された気がした。

 学校が始まった。冬休みの間、娘は養護の先生に言われた通り、本をたくさん読むようにしていた。その成果か、娘は前ほど国語の時間が苦痛でなくなったらしい。
「前は全然読めなかったのに、今はすらすら読めるよ」
 そんなことを笑顔で報告してくれる。
 しかし、娘はやはり本よりパソコンの方が好きらしい。家にいる間はしょっちゅうパソコンの前に鎮座している。今ではパソコンの中はすっかり娘の領地と化して、娘が作ったらしい家計簿ソフトやら音声ソフトやら、とにかく私には分からないことになっている。
「学校でもパソコンの授業があるよ。パソコンの時間はいっぱい褒められるよ」
 自慢気に報告する。
 娘はよく喋るようになった。家に帰って「ただいま」から始まって、手を洗いながら、宿題をやりながら、パソコンをいじりながら、引っ切りなしに喋っている。今日はこんなことを習った、虫の顔を虫眼鏡で見た、何故虹が出来るの、何故雨が降るの、ゾロアの話もした、ゾロアの仲間は幻影を使って人に捕まらないように暮らすんだって。話があっちからこっちへ飛ぶ。子持ちの同僚が言っていた「顔中口だらけ」の意味がようやく理解できた。食事中も喋る。食べながら、どうやって喋っているのやら、まるで口がふたつあるみたいだと感心してしまう。

「ねえ、どうして雨が降るか、母さん知ってる?」
 それから娘は雨滴がどうの、と難しい話を始めた。分からないので、ポケモンが雨乞いしたら降るんだ、と答えた。
「ポケモンの雨乞いで本当に雨が降るの? 嵐の雨も? 長く続く雨も? 本当?」
「本当よ。風と雷の神様が雨を連れてくるのよ」
「じゃあ、その神様やっつける」
 そしたら晴れるよね、と娘は名案を思い付いたという顔でスーの方を見た。神様を倒す役目を勝手に与えられたスーは、困り顔だ。
「そういうことを考えてたら、神様がやってきて貴女の上に雨を降らせるよ。集中豪雨」
 集中豪雨だけ、紙に書いた。
「えー、それはやだあ」
 心底嫌そうな顔をする娘に、
「悪い子の所にも来るからね」
 わざと意地悪に、そう答えた。


 暖かな季節が過ぎ、じき夏となった。娘はどうしてもプールに入りたがらないらしい。養護の先生が言ってもだめだった。きっと、体の傷を見られたくないのだろう。今のところはそっとしてやってください、と連絡帳に書いておいた。それ以外は穏やかに過ぎて、後期の授業が終わり、夏休みがやってくるものと思っていた。

 修了式の日、私は学校にいた。学校に来ている保護者は私だけだった。高学年の男子が校庭でサッカーの真似事をしていた。校門を出ていく児童は大体が軽装で、背負い鞄を持ってきた子はほとんどおらず、手提げ鞄か、やんちゃそうな男子になると手に通知表だけ持って学校を出ていっていた。
 下駄箱で来客用のスリッパに履き替えて、階段を登った。四階まで行き、リノリウムの廊下の端にある「あすなろ学級」まで、スリッパの踵を引きずりながら歩いた。
 教室の扉は軽く、少し力を入れただけで軽々とレールの端まで動いた。ガン、とドアがレールの端にぶつかった。教室の中の人が顔を上げた。あすなろ学級には、養護の先生と娘、ふたりきりしかいなかった。

「すいません、お忙しいのにいらしてもらって」
 四つ合わせた机の上には、いつかのようにA4判のスケッチブックの紙が置いてあった。
 私と娘が隣に並んで座る。先生は深々とお辞儀してから、私たち親子の向かい側に座った。まずは、と言った。その手にペンが握られていた。
「一年間、ありがとうございました」
 先生が言葉を続ける。
「転勤で、来年度からは別の小学校に行きます。カミサカさんとも、今日でお別れです」
 私は驚いて、娘の表情を見た。娘は前もって知らされていたらしく、驚いた表情はしていなかった。ただ、寂しさを隠しているようだった。

 娘より先に養護学級に入っていたもうひとりの子が今年で卒業することも関係あるらしかった。養護の先生は別の学校へ行き、ここのあすなろ学級も来年からはなくなってしまう。
「カミサカさんならもう、普通学級でやっていけますよ」
 人に慣れていなかっただけの、普通の子なのだから。
 娘は先生に励ましの言葉を貰っても、ただ口をへの字に曲げて頷くだけで、何も答えられない様子だった。
「大丈夫。自信を持って。今までカミサカさんのことを見てきた先生が言うんだから間違いない」
 丸顔の先生はそこまで言って、照れくさそうに、そしてやはり寂しそうに、顔を俯けた。

 ポツポツと、断続的な話をした後はロッカーの整理をした。もうこの教室を使うことはない。ふたりだけの生徒のロッカー箱が入っていた後ろの棚から、卒業で一抜け、学級がなくなって二抜ける。娘の飾り気のないロッカー箱から大量のプリントが出てきた。先生の苦笑いと私の呆れ混じりのため息がその周囲を包む。しみじみした気分も吹き飛んでしまった。
「パソコンのディレクトリなら整理できるのに」
 娘はプリントを整理する私を、後ろでつっ立って見ている。拳を振りかざして殴る真似だけしてやった。

 授業参観のお知らせから、運動会や遠足のお知らせ、滞納した給食費の催促(私はちゃんと月はじめに娘に渡していた。さては、先生に渡すの忘れていたな)に教科の筆記テスト、珍しいポケモンの盗難が増えているという注意喚起の紙、何かのアンケート用紙に果てはノートの切れ端まで、ロッカー箱の中に月日の順で積み重なっていた。こんなことで普通学級に行けるのやら、と不安になってくる。
 プリントの間から小さな色紙が落ちた。床を爪で掻いて、紙を拾った。蝶々の形に切り抜かれた赤い紙に、読みにくい黒鉛筆で「ゾロアーク」とだけ書いてある。
「ああ、それ」
 私の手の中の物を見とめて、先生が口を出した。
「クラスの方で、将来の夢を色紙に書いて、皆で大きな紙に貼ったんです。カミサカさんも書いたんだけど」
 貼らなかったらしい。娘が赤い蝶々をヒョイと取り上げた。
「チャンピオンとかジムリーダーとか。多かったですよ。オノノクスとか、サザンドラとか。女の子だとチラーミィやエモンガが多かったかな」
 将来、ポケモンになりたい子は存外多いらしい。
 蝶々をクシャクシャにして頬を膨らませた娘を微笑ましい気持ちで眺めていた。その時はまだ、微笑ましかった。





 新学期になって、学年がひとつ上がった。その頃から、娘は度々傷を作って帰ってくるようになった。
 喧嘩の理由を聞いても、なかなか答えない。絶対に怒らないから、と約束して渋々口を割らせても、答えた内容はあまり要領を得ていなかった。ただ、事実として娘の方が先に手を出すようなので、もう少し辛抱を覚えなさいと、それだけ何度か言っておいた。
 それで傷が減るはずもなかった。毎日一度は喧嘩して、最後は取っ組み合いになるらしい。今までは養護学級に先生と上級の子がひとりだったから、喧嘩する相手もいなかったのだ。これから擦れて成長するのだろうと思っても、毎日新しい傷を作って帰ってくる娘の姿には心が傷んだ。

 学期のはじめはプールのことで喧嘩することが多かった。連絡帳に「人前で着替えるのを嫌うので、しばらくプールはやめさせてください」と書いたのに、プールに入れようとするらしい。今度の先生は入学した時の眼鏡のように責任転嫁するような物言いはしなかったが、それが却って困ったことになった。
「プールをやらないと、体育の単位が揃わないんです。卒業できませんよ、娘さん」
 連絡帳に脅しみたいな文句が書かれていた。しかも、全員揃わないと体育をやらないという信条でも掲げているのか、学校中を使って娘を追いかけ回すらしい。いつも先生の方が諦めて終わるが、その所為でプールの授業はいつも十分か十五分遅れるので、プールを楽しみにしているクラスメートに娘が詰られる。それで喧嘩になって、取っ組み合いになって帰ってくる。
 何とか出来ないかと思って、一度着衣水泳ではだめかと聞いてみたことがあったが、指導する教諭がいないと突っぱねられた。プール関係のゴタゴタは、プールの授業ももうそろそろ終わりという頃になって、担任の教師と娘の怒鳴り合いに隣のクラスの担任が割って入り、プールの端に腰掛けてバタ足だけやらせるという形で話をまとめるまで続いた。通知表の上ではそれでもいいらしいが、よく分からない。ただ、娘の体に生傷が絶えないのだけ気になった。

 他の教科の成績も下り調子になった。歯車がひとつ狂うと、他の歯車もどんどん狂い出すという、その例えを見ている気がした。国語で知らない言葉が出てくると分からなくなるらしい。大好きな養護の先生がいなくなって以来、本読みからも遠ざかっていた。好きだったパソコンの授業も嫌になったと言っていた。クラスの授業では既存のペイントソフトを使って絵を描いたりするそうだ。自分でプログラムを読み、パソコンを解体している娘にはつまらなかろう。
 そういうのを、娘は自分から話さなかった。最近お喋りが少ないなと思って、それとなく水を向けて喋らせてはじめて分かったことだった。

 喧嘩も多いの? と聞くと、娘は小さく頷いた。
「皆馬鹿にするもん。髪を染めたいって言ったら……」
「髪を、何?」
 下を向いたままの彼女の肩に触れてこちらを向かせた。手話を見た娘はしばらく考えてから話し出した。
「母さんの髪、紅色で綺麗。ゾロアークみたいだし。私の髪、黒でつまんない。大きくなったら髪、染めたいって言ったら」
 また俯きそうになって、娘は溺れているみたいに顔を上に向けた。
「……クラスの子が、前に書いたの、まだ本気にしてるの、ポケモンになりたいなんて馬鹿みたいって言って」
 娘の言葉は、そこで途切れた。
 私は娘に向き合うと、そっと頬を手の平で挟んで、笑顔を作った。それから両手を離し、
「貴女の髪は綺麗だから、染めるのはもったいないよ」
 それだけ伝えた。
 ゾロアークになりたいなんて馬鹿らしいと一蹴すればいいのか、まだそんな夢を見てていいのよと仮初にも慰めればいいのか、迷って中途半端に答えてしまったなと思った。

 それでも、ひと月ふた月経つと、だいぶん落ち着いたように思われた。少なくとも、娘の傷は目に見えて少なくなっていた。その代わり、息子の傷が増えていた。吃驚して問い質すと、最近は喧嘩になると取っ組み合いではなくポケモンバトルになるのだという。娘の他にもポケモンを連れてくる子はいる。そうなるのもむべなるかな、というわけだ。
「でも、どうなの? 嫌じゃない?」
 息子のスーにそれとなく聞くと、息子はケロリとして答えた。
「だって僕たち、バトルビデオ見て研究してるもん。楽勝楽勝」
 確かに、私の職場からいいバトルの様子をダビングして家に貰って帰っていた。
 そのビデオを見たからと言って、百人が百人バトルの達人になるわけではなかろう。娘には幸か不幸か、バトルの才能があるのだ。
「今んとこ、僕たちのコンビが最強だよ」
 それから、レベルの低いオタマロやチョロネコを如何にしてやっつけたかという武勇伝に移る。
 言葉のあやとはいえ、義理の妹の指示を聞くのはどんな気分かと聞きたかったのだが、それを聞くことは遂になかった。
 その時はポケモンバトルで強いらしいと聞いてひとまず安心だと思っていたのだが、つくづく、自分は何も分かっていなかったと思う。

 また、こんなこともあった。
 夕方、部屋で家族揃って夕食を食べていると、忙しなくチャイムの音がする。その日は豚の角煮だった。
 来客を早く追い返してしまおうとドアを開けると、娘の担任教師がダン、と右足を三和土に叩きつけるように踏み出したのである。目が三角だった。学期はじめの、プール騒動の只中にあった頃のことだ。
 娘がどうしても水着に着替えたがらないので、彼は身体的虐待を疑って家まで押しかけてきたのである。
 実際には虐待どころか、娘を傷付けることを恐れて手を上げたことすらなかった。しかし、私はもちろんのこと、娘の説明にも耳を貸してもらえず、ほとほと手を焼いた。夕食が冷めるから出ていってくれと伝えてもなかなか引き下がらない。娘の言葉を信用しないのは、子どもというのは親を庇うから、だからだそうだ。
 禅問答を繰り返して、やっとの思いでありついた夕食は芯まで冷え切っていた。虐待なんかがある人間が面倒くさいと、その時はじめて思った。
 その後も担任の彼は連日のように家まで来て、がなり立てた。私はすっかり参ってしまって、一度など、間違えてゾロアークの姿のまま応対に出た。娘の体には連日の肉弾戦で多量の生傷が付いている。それを取り沙汰され、一時は娘と引き離されそうなところまで行った。すんでのところでその事態を免れたのは、隣のクラスの担任が、娘のクラスで毎日暴力沙汰が起こっていることに関して、職員会議にかけたかららしかった。
「隣の先生の方がいいなあ」と娘が呟いていた。その隣の先生は娘の担任について、情熱が空回りしているだけであって、決して悪い人ではないのだと言っていた、らしい。確かにそうだとは思えたけれど、娘が彼を嫌っていたので、私も彼を嫌っていた。


 秋から冬に移ろう頃、娘が風邪を引いた。
 いつかのようにおかゆを作って娘に食べさせた。外では木枯らしが高い笛の音を奏でている。この子を拾った日もこんな日だったか。しかし、鍋の中身はもう出来合いの、お湯を入れて五分というパック詰めの食品ではない。私が食材を選んで作った、野菜たっぷりのおかゆである。
 そのおかゆを見た娘は、不満そうな顔をした。しかし、文句を言わずに黙って食べているところを見ると、消化器の具合が悪いわけではないらしい。子どもっぽい、ただの野菜嫌いである。
 娘を布団に押し込んで、私はテレビの電源を入れた。それから音量を最小にし、天気予報を見る。画面の中の予報士が何か言う前に、息子が「寒いのやだなあ」と言った。
「今年は厳冬となる見込みです」
 仏頂面の予報士がそう締め括って天気予報を終える。私はニヤリと笑う。息子は生意気そうな顔をして、布団の中に引っ込んだ。その尻尾をすかさず捕まえる。
「どうする? 森はもっと寒いぞ」
「もう森に行かないからいいよ」
「でも、街だって寒いよ。どうする?」
 息子が名残惜しそうに布団を見た。
「寒いのは分かってんだけどさ」
 そう言って、再び布団の中に潜り込む。その尻尾を掴もうとしたが、息子は尻尾を素早く引っ込めて、今度は掴ませなかった。
「こらこら」と私は呆れた声で言う。
「街も寒い、って言ったでしょ。布団の中でぬくぬくしてたら、体がなまるじゃない」
 息子がひょっこり、首を布団から出した。
「でもさ。今は妹が風邪でしょ。体、冷やさないようにしなきゃ」
 舌をチョロリと出す。そしてまた布団の中に隠れた。
 やれやれ、と口に出して言った。それから立ち上がって、食器を流しに運び始めた。

 娘の目が私を見ていた。布団の中から小さな寝息が聞こえる。息子の方は眠ってしまったらしい。
「どうしたの?」
 布団の横に座った。いつものように娘の髪に手を伸ばす。その手を、娘がそっと押し返した。
 今まで起こらなかったことに動揺を悟られないよう、ただ笑ってやりすごした。娘の目が私を見ている。美しい濃い紅色の目だ。ゾロアークの髪のような。
「母さん」
 娘が口を開いた。
「何?」
 そう問い返して、随分と時間が経ってから、娘が答えを返した。
「私は、母さんの子どもだよね」
「そうよ。……母さんはいつだって貴女の味方よ」
 前も、同じことを聞かれたことがあった。きっと、不安なのだ。昔も今も。

 何がどう不安なのか、昔も今も、履き違えていたけれど。

「そう」
 娘はそう口にすると、天井の方を向いた。どこか、上の空だった。
 洗い物をする為、しばらく布団の傍を離れた。洗い物を終えて戻ってくると、娘がさっきと同じように、天井を向いているのが目に入った。
「ちゃんと寝なきゃだめよ」
 手話でそう伝えた私に、娘が再び「母さん」と問いかける。私はまた布団の横に座った。
「どうしたの」


「……学校、行きたくない」
「元気になったら、また行かなきゃだめよ」
 そう言って、私はまた腰を浮かしかけた。
「母さん」
 その私を、娘が三度引き止める。
「何? 今度は」
「私、」
 悲しそうな目だと思った。

「森に行きたい。森で暮らしたいよ」

「どうして?」
 利便の為に手話を学んだ身が恨めしかった。私はまた、般若のような顔をしているのではないかと思った。口先で化かすことは出来ても、私は表情まで誤魔化すことは、出来ない。
「だって」
 娘はまた悲しそうな目をしている。
「母さんもスーも、きつねさんだから」
 季節外れの金木犀の匂いが鼻についた。悲しそうな目。
「森で暮らしたい。もう学校なんかやだ」
 何故だろう。
 街でずっと暮らしてきた。人間のことを知りたいと思って、知っていると思っていた。

 なのに、娘の表情の意味が分からない。その目が悲しそうとしか、私には分からないのだ。

「本当に、私が本当の」

 狐の子どもなら、よかったのに。

 それ以上は言ってはいけなかったのに、彼女は言ってしまった。

 私が彼女を見下ろしながら思っていたのは、決して彼女が嫌い、とか憎い、とかではなかった。彼女の言葉の向こう、顔の向こうにある思いの端も感じ取れない自分の不甲斐なさに腹を立てていた。けれどそれは、彼女を拾ったのは失敗だったと思っているのと、同義なのだ。

 彼女は狐の子なんかじゃない。立派な人の子どもだ。ただ、生い立ちが少し不幸だっただけで、それ以上の不幸を背負い込む由は欠片もなかった。

 頭に上った血が、ぐるぐる、回り続けていた。目頭が熱くなったけれど、とても彼女の前で泣く気にはなれなかった。彼女を不幸にしたのは自分だから。

 所詮、私は狐。人の子の情を感じる術も受け止める術も知らず、彼女を育てるなんて、無理だったのだ。
 人として、幸せに。昔の自分の誓いの言葉が、虚ろに胸の中に響いた。





 それから数週間を、無駄に過ごした。
 私はどうやって彼女の成長を正常に戻せばいいか、無為に考えていた。

 昔、根元が折れ曲がった松の木を見たことがある。
 地面から数センチの所で直角に折れ曲がり、そこから十数センチ南に伸びた所で、また直角に曲がって、そこから平気そうに天に向かって伸びているのだ。
 彼女のことを考える度、折れ曲がった松の木の根元が、鮮やかに瞼の裏に現れる。どこで見たかも思い出せない松の木が、私が考えても無駄だ無駄だと、無言なのに雄弁に物語る。

 何度か、息抜きに森へ行った。ひとりで、ゾロアークの姿に戻ってぼんやりと過ごした。最初は「いい身分だな」とからかいに来た仲間も、私の様子を察して遠巻きに見るだけになった。

 こうして私は、大事な数週間を森と職場の往復で過ごした。部屋で過ごす時間を意図的に少なくしていた。

 相応しい結果になるものだな、と思った。


 風こそ冷たかったが、空はよく晴れていた。けれど、少し空が低いような、そんな気がした。
 娘の手を引くのは、何日ぶりだっただろうか。私が娘と手をつなぎ、娘の横を息子がトコトコ歩く。知らない人が見たら、ありふれた家族だと思うだろう。是非そう思ってほしい。

 ライモンシティの西、朱で彩られた跳ね橋を渡れば、ホドモエシティに着く。大小様々な船の寄港地であり、東西南北の珍かな品が集う港町でもある。集まる品は青果が多いが、市場のあちこちでアクセサリーなども売っている。市場の上には白い布で屋根を作っていて、その下に入ると、僅かに外よりも空気が冷たい。けれど、集まる人の熱気で、その寒さはすぐに潰えてしまう。
 何故ここに来たのか。可愛い髪飾りでも買おうか、珍しい物を見たら、娘の気も紛れるかもしれないと思っていたような気がする。娘は私と手をつないだまま、頑なに前を見つめていた。
「これ、買う?」
 娘の好きな紅色で色付いたお守りだ。ジョウト地方の古都に伝わる上等の織物だそうだ。
 娘が首を横に振ったので、私たちはそこを離れた。
 海の方で、色とりどりの巨大なコンテナが上がったり下がったりしていた。コンテナが上下するその方向から、巨大なトラックがコンテナを引いて山向こうへ走り去っていく。
 そこから少し行った所に、鉱物ばかり集めた一角があったけれど、見ただけで特に買いたい物はなかった。
 娘がひとつの鉱物を指して小さく声を上げた。真ん丸な水晶玉のような、独特な水色を湛えた玉。内海の青と冬空の青を混ぜたような、緑を含んだ色。どこか私たち一族の目の色に似ている。
 水晶玉から足早に離れ、今度は毛皮が広がっている一角に迷い込んでしまった。チラチーノの、襟巻きや尻尾の白い部分が平たく薄っぺらになって幾枚も重ねてあった。気分が悪くなったので、そこも足早に離れた。

 娘と息子と、はぐれてしまった。市場の人混みを見る。小さな子どもたちの姿は、容易には見つかりそうにない。
 困ったな、どうやって探そうか。冬空が機嫌悪そうに、ゴロゴロと低い音を立てた。山の方に雲が出ていた。鼻先に、雨の先触れの匂いを感じた。
 その時、肩を叩かれた。


 遠くに市場の白い幌が見える。
 街の外に停められた巨大なトラックの影。
 街からは決して見えない場所に、私はいた。
「大変ですよね。ポケモンなのに人間を育てるなんて」
 私の肩を叩いた男は、嘲るように笑いながらそう言った。

 男はホドモエの港で働く人と同じ服を着ていたが、異様に臭かった。トラックの排気ガスも酷いが、この男は更に酷い。何の匂いだろうか。

「でも、ポケモンに育てられた人間の方が、もっと大変ですよねえ」
 へらへら笑う男を睨み付けた。男は一瞬体を強ばらせた。が、すぐにまた元のへらへら笑いを始めた。

 私の変化はもう解けている。ゾロアークの私を、斜めに見ながら男は続ける。
「人間に育てられたポケモンの権利は保障されていますが、ポケモンに育てられた人間はどうか、と……」
 私は男を睨み付ける。手話も通じない、筆談もなしだから、ただ睨み付けるしかない。

 冷たい風が頬を撫でて、それで我に返った。
 何をやっているんだ、私は。
 市場で「娘が向こうにいる」と話しかけられて、つい付いてきてしまった。トラックの影まで来て、彼に何故か正体がばれていると知って、つい留まってしまった。けれど、頭を冷やして考えてみれば、そんなことをする必要はないのだ。ポケモンに育てられた人間の権利? それはちゃんと法律で保障されている。仮に私がゾロアークだとばれたって、別の場所に引っ越せばよいだけの話じゃないか。

 馬鹿を見た。
「馬鹿らしい、とでもお思いですか?」
 男が、不意にねっとりとした声を出した。
「そういえば、こんな話がありましたねえ」
 男の目だけは、冷たく乾いていて、冬の風のようだった。そして相変わらず、異臭が鼻につく。
「ポケモンに育てられた男が、自分もポケモンだと思ってぶつかってくるクリムガンを受け止めようとしたとか。男の体は」
 その男は言葉を切って、舐めるように私を見た。街暮らしで鈍っていた本能が起き上がる。そうだ、さっさと立ち去らねば。耳を貸すな。相手になるな。
「行きたければ、行けばいいんですよ、ご自由に」
 男が恭しく礼をした。異臭。湿気た匂い。嵐が近付いている。
「娘さんと、末永く暮らせばいいでしょう。ああ、さっきの話が途中でしたね。クリムガンにぶつかった男の体は」
 根元が曲がった松の木が脳裏に浮かんだ。その幻を振り払う。トラックの影から出る。
「やれ」
 男が冷たい声を出した。
 一瞬の後には、私の体は地面に這いつくばって動けなくなっていた。

「運べ」
 また、冷酷な声がした。
 何が起こったのか、何匹のどんな種類のポケモンに襲われたのか、全く見当もつかなかった。
 鼻につく、そうだ、異臭だ。

「よくやった。メスのゾロアークは珍しいからな。逃がすなよ」
 暗くなる視界の中に、ゴミの塊みたいなのがいくつか見えた。鼻が曲がる。街暮らしと合わせて、恐ろしく判断が鈍くなっていた自分に嫌気が差した。

 手足に鉄の輪っかの感触があった。爪の先に格子が触れる。檻に入れられた私を、ダストダスたちがコンテナの中に運び上げた。コンテナの重い扉が、下りていく。
「大変ですよねえ、娘さんも」
 娘。その言葉が私の体を動かした。しかし、鉄の輪が許容する範囲以上に、どうしても、動かない。
「ポケモンに育てられた女が、人の群れに紛れ込もうとしたとか」
 光がどんどん細くなっていく。
「人間とぶつかった」
 糸のように細くなった光の線から、男の言葉がスルリと入り込んだ。
「女の心は」
 そこで、途切れた。


 鳴いた。喉よ裂けよとばかりに、大声で鳴いた。
 鳴きながら、喚きながら、滅茶苦茶に振り回した右手の金具が壊れる。そして、それで終わりだった。

 右手が千切れたような痛み。血の匂いがコンテナ中に広がった。本能を刺激するその匂いに、コンテナで眠っていた、他のポケモンたちが起きた。彼らの悲鳴が、慟哭が、冷たい金属の壁に木霊する。それにかき消されないよう、私は必死に声を張り上げた。あの子の元に帰らなければならない。間違いでも、取り返しが付かなくても、一度だけ、あの子の元に帰して。

 家に帰って、あの子を抱き締めるの。
 ごめんね、ごめんね、ごめんね。それから必死で謝るんだ。うるさいの、黙って! 私はあの子たちの所に帰らなきゃいけないのよ!

 神様がいるなら、この身が滅んでもいい、この願いを叶えてほしい。
 けれど、やってきたのは、意地悪で性悪で、最悪な神様だった。

 阿鼻叫喚の地獄絵図は、鉄輪と檻で、辛うじてその秩序を保っていた。限りなく混沌に近いこの空間の、天井が破れた。

 歓喜と狂気が、暗闇に落とされた獣たちの咆哮となる。
 雨だ。声も、すぐにやんだ。

 誰かが壁にぶつかった。誰かが鳴き声を上げた。誰かがトラックを倒そうと、身震いを始める。そしてそれはすぐに、大きなうねりへと変化する。

 やめて! 私は生きて帰りたいの。貴方たちの身震いに付き合ってられないのよ!

 うねりは更に大きなうねりとなる。大きなうねりは更にもう一段階大きなうねりに。
 流れ込んだ雨が、逆巻く。雨と競うように、声を張り上げる。

 雨が床から天井へと流れ出し、獣たちがウォーと叫び声を上げた。感じる方向が、逆さまになる。私の体は宙に浮いて、水がぐるりとコンテナの中を回って天井へ向かうのを見ていた。ポケモンの体も全て、反転して、ぐるりと回る。

 世界の音が止まった。

 はるか下方に、茶色の泥流の中を流れていくトラックとコンテナが見えた。それを見る、私の体は別の斜面に落ちる。
 鉄格子に歯をぶつけた。目と頭の中で星が散る。コンテナの僅かに開いた扉から、最後に入れられた私の檻が飛び出した。しかし、幸運もここまでらしい。

 泥が天から降ってきた。暗雲の所為で、茶色かどうかも分からない。鼎のような雲が山肌に重たい腰を下ろしていた。雲の裾から、土混じりの雨が、ぴちゃり、ぴちゃり。そして、ゆっくりとせり上がってくる茶色の悪魔が見えた。

 私は全身全霊を込めて、遠吠えをした。


「私が本当の、狐の子どもならよかったのに」

 ……泣かないで、泣かないで。私の愛しい子ども。

「苦しいよ。こんなことなら、母さんと会わなきゃよかった」

 そうだったかもしれない。ごめんね、ごめんね、ごめんね。

 でもお願いだから、会わなきゃよかったなんて、言わないで。だって、私は、


 ○●


 母さんの姿が見えなかった。
 スーが心配していたけれど、すぐに探しに行く気になれなかった。
 あんな酷いことを言ったのに、どういう顔して会いに行けばいいんだろう。
 私はいつものようにスーを抱いて、市場を見て回っていた。
 鉱物コーナーの隅、スーや母さんの瞳によく似た水晶玉を見つめる。

 もしもこれから母さんと離れて暮らすことになったとしたら、そうしたら今まで暮らしてきた時間は離れた分だけ相殺されて、ゼロに戻るだろうか。会う前の時に戻って、やり直しできるだろうか。
 ありえない、と思った。

 スーが腕の中でモゴモゴ動いた。
「そうだね。行くよ」
 でも、どうすればいいんだろう。
「会わなきゃよかった」なんて言ってしまったのに。母さんに育ててもらったのに、そしてそれ以上に、

「ぎゃう!」
 急にスーが声を上げた。
「何?」
 目の前には、母さんの瞳の色と同じ水晶玉。
 嫌な予感がした。

 市場の西、街のすぐ外にピンと張られていた、キープアウトの黄色いテープの下を抜けた。
 周囲は野次馬と逃げる人と、混乱を収拾しようとする警官の声で、余計に混乱が深くなっていた。

 山へ続く道に、深い轍が残っていた。その先は、山と、雲。
 スーの幻影で、私ひとりの姿ぐらい、誤魔化せる。赤いパトランプに次々と追い越されながら、緩やかな山道を登っていく。轍が深くなっていく。

 不正なナンバープレートを付けたトラックが、やけに大きなコンテナを積んでホドモエを離れたらしい。野次馬か警官が喋っていた。
 母さんはそこにいないよね? この道は念の為に走ってるんだよね? 私の腕を離れ、数歩先を示す黒狐は答えない。

 突如、雨が降った。
 まるで今まで建物の中にいたかのように、そして突然屋根が切れたかのように、文字通り土砂のまじった土砂降りが私を襲った。雲という、怪獣の足に踏み潰されているかのようだ。近くの山肌に、恐ろしい程はっきりとした輪郭を持つ、鼎のような黒雲が立ち込めていた。悪い子の所に、風と雷の神様が、嵐を連れてくるよ。そんなことない!
 知らず、体が震えた。一歩先が見えない。慌てて手を伸ばし、スーの尻尾を掴んだ。
「おい、君、何をやってる!」
 茶色の衝立の向こうにチラチラと一瞬だけ見える赤い光。その方向から、体躯のいい青年が近寄ってきた。

 まずい。尻尾を掴んだから幻影が解けちゃったんだ。

 五里泥中の状況下で、私は闇雲に前と思う方角に向けて走り出した。
 警官の声が豪雨に阻まれる。ザー、ではなく、ゴ―、という音がしている。パトランプも、パトカーのヘッドライトも届かない向こうへ走ってみる。空間を水で埋めるような雨。とうの昔に服は水を吸い、流水のような雨で皮膚が洗われていた。まるで水底にいるかのようだ。息が苦しい。腕の中で、スーが鳴いた。

 最初は探るように、次第に大きくなる吠え声は、スーの声というより、何かと共鳴して鳴いているような印象を受けた。

 雨で、心の芯まで冷えたのだろうか。
 その時が来るまで、私は母さんは関係ないと、心のどこかで思っていた。

 寒い、寒い。すっかり冷えちゃった。風邪ひくかも。ねえ母さん、帰ったら、また、おかゆ作って。
 それでまた一緒の布団で寝るんだ。ねえ、そうでしょ? そうだと言ってよ。


 スーが、鳴いた。

 続いて弾けて飛び出すような、高い、美しい声音が空間を渡った。

「……さん」
 声が掠れて、出ない。

 雨が、非情にも弱まった。
 茶色一色だった視界が、糸が解けた布を見透かすように、楽々と遠くまで見通せるようになっていた。

 豪雨を受け止め切れず、刻々と形を変えていく山肌に、一番見たくて、一番見たくない人の姿があった。

 この雨の中、そんな場所にいたら、檻にいたら、逃げられない。逃げられないじゃないか。

「母さーん!」
 必死に叫んだ。走った。冷え切った脚の動きが、驚く程に遅い。こんなんじゃ、間に合わない。
「母さん、母さん!」
 喉が壊れてもいい。叫ぶしかない。一歩でも進まないと。届かない。

「母さん、行かないで! 母さん!」

 山肌が蠢く。せり上がる。その動きは酷くノロノロとしていて、今なら私の足でも、パッと駆けていって母さんの所へ行けそうだ、と思う。なのに、脚が動かなかった。動け、動けと念じて、やっと一ミリ、二ミリ、鳥肌の部分が動く。だからって、手を伸ばしても全然伸びなくて、空気の壁が邪魔しているみたいにつっかえてしまう。

 これが報いなんだと思った。
 拾ってくれて、育ててくれて、大事にしてくれた母さんに、「会わなきゃよかった」なんて戯言を言った、これが報いなんだ。

 悪い子の所に、神様が来るよ。

 本当に来たよ。母さん、ごめんなさい。ごめんなさい。もう我侭言わないから。母さんの作ったものなら、野菜たっぷりのおかゆだって何だって食べるから。
 だから、帰ってきてよ。
 あの温かいおかゆを作ってよ。
 スーと、私と、母さんの三人で、ずっとずっとずっと仲良く暮らすんだ。帰ってきてよ、帰ってきてよ、母さん!

 愛してくれたのに。
「行かないで……行かないで、母さん……」
 必死に叫んだはずの声は、搾り滓みたいな湿気た屑にしかならなかった。

 茶色いそれは、動きはゆっくりなのに、ちっとも動きを止めてくれなかった。

 怖いよ。
 茶色のそれが、半分液体みたいに、半分固体みたいに、形を変えて、つい、と檻の隅を突いた。
 黒い、見慣れた姿。とん、と茶色が檻を包むように横側を覆って、黒が見えなくなる。茶色は檻を押すようにさっと流れて、檻を手放したかのように、茶色の中で檻が傾いて。

 檻の上に、茶色が覆い被さった。景色は再び茶色一色の世界に戻る。雨の音も、戻ってきた。

 大事なものだけ、戻ってこなかった。





 あるべき所にあるはずだった部屋は、がらんどうで、そこにあった何もかも残っていなかった。
 あの日の記憶の一部、母親が土砂崩れに呑み込まれた一部始終は、畳み込まれ、心の奥底にしまわれた。それを思い出す時は、奇跡が重なってもう一度母親に会えた時か、有体に言って発狂した時だろう。
 少ない荷物をまとめて、部屋を引き払った。
 家具の消えた、だだっ広い部屋に、いたずらにはしゃぐ、かつての自分の幻が見えた。それを見つめる、母の目線だった。

 雷文こども園。昔読めなかった文字が、今は読める。
 あの日、母に連れられてきた場所が、ここだった。泣きじゃくる私を抱き上げた、優しい母の目が、今でも思い浮かぶ。今もどこかで見ていないかと、探してしまう。

 こども園と塀の外を分かつ門扉に、背を向けた。

 満開の時を迎えた、桜並木の中を歩き出す。
 私の左手を守るように、小さな黒狐が歩調を合わせて、歩む。
 風が吹き、桜色の花びらが風に踊る。薄桃色の蝶々の群れの中に自ら飛び込んで、自分で自分の門出を祝う。蝶々が飛び立った後には、微かな風しか残らなかった。





 ……いつしか。
 ブラウン管が流行らなくなって液晶に置き換わり、モニタとハードが一体化した箱型も流行らなくなって、私もモニタとハードディスクが別々の、スマートな型のを愛用するようになっていた。

 それでも、これを捨てずに置いていたのは何故だろうと思う。何年も前の型で、無骨な白い箱型のパソコン。電源を入れて動いたのが奇跡だと思う。
 パスワードも、ユーザー名もない。何もかも受け入れてくれるような安堵と、大事なものを忘れてしまったような空白を感じた。
「……あ」
 見覚えのあるプログラムが開く。はじめて褒められた時の、あの華やかさが、舞台に踊り出るように、心に開く。
 そこから、次々と記憶が溢れ出す。懐かしい記憶、甘い記憶、あの毛皮の感触。雑多で無茶苦茶な記憶の奔流に釣られて、開けてはならない記憶まで飛び出そうとしていた。
 両腕で、しっかりと体を抱く。これから始まる墜落に備えるように。そんなことをしたって、何の意味もないのに。運命の扉が、もうそこまで迫っている。

 その扉を閉じたのは、懐かしい声だった。

「あ、い、し、て、い、る、よ。へ、ん、じ、は、い、ら、な、い」

 記憶の飛翔は終わり、母鳥に抱かれる雛のように、私は目を閉じる。
 一時だけ、母の胸に抱かれる夢を見る。
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