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狐の子〜前編
 逃げていた。
 何から? 何でもいい。とにかく、必死に逃げていた。

 どこかも分からない、真っ暗な中を、走り、走り――喉の奥からせり上がる嗚咽と、肺に流れ込む空気がぶつかり合って、酷く吐き気がした。脚を必死に動かした。止まったら追い付かれる。ぶかぶかの靴の中で、足の皮膚が削れた。それも、同じ所ばかり何度も何度も。親指の付け根がなくなってしまいそうだった。太ももの辺りが何だか硬くなって、動かしにくくなった。それでも太ももを無理矢理高く上げて、動いた。動かす度に、脇腹にナイフを差し込まれているような痛みが走った。
 冷たい。寒い。私が吐く息は酷く熱いのに、吸う方になると体をえぐるように冷たいのはどうしてだろう。そういえば頭が熱い。体も熱い。脚を動かしているけれど、本当に動いているかどうか、分からない。自分が這っているような気がしてきた。前に進んでいるだろうか。分からない。熱い。冷たい。頭を持って振り回されているみたいに、世界がぐるぐるぐるぐるぐるぐる……

 瞼の向こうが急に明るくなった。いつの間にか、どちらが空か分からないけれど、多分上の方を向いて、私は地面に倒れていた。
 冷たい空気が塊になっていて、その中に放り込まれた熱の塊が私。本当なら熱が冷たい方に移って、私は冷たくなるはずだけれど、私は熱いままだった。
 脚の感覚がなかった。ぜえぜえいう息の音だけ聞こえるのに、息をしている感覚がない。肋骨の辺りがバラバラに切れちゃってる。なんだか、そんな気がした。

 私の上に大きな黒い影が現れた。ああ、見つかった。不思議と恐怖は感じなかった。影は私の上に屈み込んだ。背中とお尻に毛だらけの腕が当たって、私の体は宙に浮いた。私の体はどこもスライスされていなかった。腕の上で私の体がころりと転がって、顔がその人の毛深い胸に当たって、埋もれた。こそばゆかった。
 その人が毛だらけの体でぎゅっと私を抱き締めた。毛布で包まれているみたいに暖かかった。そこから、記憶がない。眠ってしまったんだろう、と思う。


 ●○●


 ガスコンロの火を止めて、私はベッドの方を見た。

 六畳一間のアパートの二畳程を占拠して、窮屈そうに置かれた安物の折り畳みベッドは間違いなく私の物だ。しかし今夜は、思いがけないお客さんがベッドに入っていた。
 白い掛け布団が、ゆったりとしたペースで小さく上下している。お客さんはまだ夢の中らしい。鍋の蓋を取り、おかゆの具合を確認した。おたまにひと口取って、唇に当てる。まだ少し、熱い気がする。いや、ベッドの中の彼女を起こしてまで与えるには、どう考えても熱すぎる。彼女はまだ、小さな子どもなのだし。そう思ってベッドを見たら、件の彼女が半身を起こしてこちらを見ていた。私は彼女が怖がらないよう、出来る限りの笑顔を作って、
「こんばんは。気分はどう?」
 手をひと通り動かし終わってから、気付いた。

 急に手話なんかして、どうするの。私は頭を振る。
 十中八九、分からないわよ。私、ぼけてるわね。
 案の定、私と目を合わせた子どもは、意味が分からない、という風に首を傾げた。その目の焦点はちっとも合っていなかった。彼女の頭にいらぬ負担を与えたかもしれない。私はおかゆを入れた鍋を持って、彼女に近付いた。
 食べられる? と問う代わりに、鍋の中身をおたまで持ち上げて彼女に示した。彼女は相変わらず、焦点の合わない目でこちらを見ている。心なしか顔が赤い。熱があるのかもしれない。私はちゃぶ台に鍋を置き、手の平を彼女のおでこに当てようとして……

 ああ、やっぱり私、ぼけてる。


 言い訳をすると、今夜は少しごたごたしていたのだ。

 用事があって久しぶりに故郷の森に帰ったら、仲間に「森の奥に人間の施設が出来た、気になるから見に行ってくれ」と頼まれた。私は森に住む仲間に比べれば多少人間のことに詳しい。ふたつ返事で了承して、行く道すがら、その施設の方向からもの凄い音がして、光が迸るのを見た。空気の急激な膨張が、遠く離れた私の所まで届いて、私の紅色の髪を揺らした。
 爆発なんて恐いな、と思ったが、それ以上に施設への好奇心が湧き上がってきて、私は足を前へと動かしていた。
 施設は何故爆発したのか? 施設は何故あの場所にあったのか?

 こういう時、普通のポケモンなら、逃げる。こちらに向かってくる草や虫のポケモンの群れをかき分けながら、時に逃げ惑うポケモンにぶつかったりしながら、私は自分の行きたい方に進んでいた。逆流する私に、何匹ものポケモンが怒鳴り声を浴びせかけた。変わっていると自覚はしている。でも、森の奥にある人間の施設なんて、しかもそれが急に爆発しただなんて、まるでドラマの世界みたいでワクワクするではないか。野生のポケモンたちは、そんなことを考える間もなくひた走る。街に住む私は、あの施設で危険な実験生物を飼っていて、それが脱走したから証拠隠滅の為に施設ごと爆破したんじゃないかとか、色々考えながらノロノロ歩く。

 ポケモンの群れが急に途切れて、喧騒が後ろに流れていった。それと同時に冷たい空気が顔を撫でた。私は嵐を御輿に担いでいるかのような群れを見送って、再び施設に歩を進めた。

 そして、彼女を見つけたのだ。


 小さな人間の子どもだった。
 夜色の髪の、細っこい女の子だった。幸運にもさっきの群れの通り道から外れていたらしく、傷らしい傷は見当たらなかった。しかし、血の匂いがした。
 その子を見た私は、とりあえず地面から彼女を抱き上げ、施設へ行くのを中座して家に連れて帰った。
 抱っこすると、彼女は腕の中ですぐに重たくなって、眠ってしまったのだと分かった。けれど、家に行く途中ずっと、しゃくり上げる音が続いていた。私はどうすることも出来ず、彼女の背中をさすっている内に家に着いた。

 家に着くとまず、彼女の靴を脱がせた。ダボダボのブーツを彼女の足から外すと、こもっていた汗と血の匂いがわっと広がった。私はその匂いに顔をしかめつつ、彼女を自分のベッドに寝かせた。酷く血の匂いがしていた。匂いの元はすぐ分かった。彼女の足の親指の付け根が真っ赤に削れていて、見ているだけでも痛々しかった。

 まずは絆創膏を探そうとして、そんな物はこの家にない、ということを思い出した。
 では汗だらけの彼女の服を着替えさせようと思って、子ども用の服もこの家にないことを思い出した。
 私は再び人間の姿になって――そういえば、森から家までずっと元の姿だった。ぼけてる――近所の深夜営業の店に行って、絆創膏や子ども用の下着や、その他諸々人間の生活に必要そうな物を買いこんだ。おおよそ、人間が必要とする物は、服も食事も、私の家にはないのだ。両腕いっぱいにその店のビニール袋を引っかけながら、カモフラージュの為にも、もう少し買い溜めしとけばよかったな、と心の中でため息をついた。

 家に戻り、買った物を部屋に広げて、まずは彼女の着替えに取りかかった。
 汗の染み込んだダブダブのトレーナーを脱がせ、ズボンを留めていたサスペンダーを外し、サイズの合っていないズボンも脱がせた。買ったばかりのタオルを湿して体を拭く。傷がいくつも付いていたが、古いものなのでとりあえず放っておく。子ども服は売っていなかったので、昔買った寝間着を着せた。大きめに作られた寝間着の上で彼女の体はすっぽり覆われた。髪をブラシで梳いてやると、ヤマンバみたいになっていたのがサラサラと綺麗に流れた。もちろん、新しい下着も着せた。足に絆創膏も貼った。

 衣食住の衣の世話が終わると、次は食の支度に取りかかった。時間はまだ夜中の零時だが、この子がいつ起きるか分からない。きっとお腹もすかせているだろう、起きたらすぐ食べられるようにと、シンクの下から鍋を取り出して、水を入れて温めるだけで出来上がるという、便利なおかゆの素を入れた。後は火を付けて五分待つだけ。ジッと音がして青い炎が現れた。
 ゆらゆら揺れる青い炎を見つめながら、結局あの施設は何だったのだろうとぼんやり考えた。

 森の奥で、急に爆発した施設。彼女はやはり、あの場所にいたのだろうか。体に合わない服を着て、森の奥で。あんな小さな子が、何故? 何の為に?


 しかし、そんな疑問も、この状況では頭の中からふっ飛んでしまった。
 目の前には私を見ている少女、その瞳の中には黒い、尖った顔のポケモンが、鋭い爪の付いた腕を半端に振り上げた姿が映り込んでいる。

 私、相当ぼけてる。仲間からもうっかり屋だとよく言われる。

 少女が平時の状態なら、おかゆを入れた鍋を持ってきて爪を向けたゾロアークに度肝を抜かしたことだろう。幸い、疲れて頭がぼんやりしているのか、彼女は驚愕も焦燥も顔に浮かべなかった。よし、ばれていない。
 私は人間の姿に化けると、改めて彼女におかゆを差し出した。しかし、彼女はそっぽを向いて、ベッドに潜り込んでしまった。

 食欲がなかったのだろうか。私から顔を逸らす前、一瞬だけ怯えの表情を見せたような気がする。目の前で化けたのが不味かったのかもしれない。
 私は鍋の中身を見つめた。折角用意したのに、とも思ったが、また彼女が食べたいと言った時に温めればいいと思い直して、ひとまず鍋ごと冷蔵庫に入れることにした。鍋の淵をおたまで叩いて、おたまに付着した米粒を落とそうとしていると、ベッドの下から息子の黒狐が顔を覗かせた。
「ごめんね、起こした?」
 いつものように、ポケモンの言葉で息子に話しかける。
 小さな息子は不機嫌そうに「起きるよそりゃあ」と言うと、ベッドの下から這い出てきた。そして、黒い鼻面をベッドの上に向けると、「あれ、誰?」と私に聞いた。

「森に行った時に拾ったの」
 ふうん、と興味なさそうに鳴くと、息子は再びベッドの下に入り込んだ。数秒と経たぬ内にベッドの上と下から規則正しい寝息が聞こえてきた。おたまを鍋に突っ込んで蓋を被せ、そのまま丸ごと冷蔵庫に入れると、ちゃぶ台を壁の方に押しやって床に寝転んだ。

 今夜は忙しい夜だった。
 ああ、そういえば。
「折角森に行ったのに、結局用事が出来なかったなあ」
 独りごちた言葉尻が欠伸に呑まれた。ベッドの下から、半人前の息子ゾロアの目が覗いていた。

 ごろん、と寝返りを打つ。私は目を閉じて、眠り始めた。


 次の日、目覚めると、腕の中に彼女がいた。

 一気に頭が冴えた。昨晩ベッドの中に入れた彼女がどうしてここにいるのかはさておき、彼女が潰れていないかどうか、うっかり爪で引っ掻いていないか、大急ぎで検める。

 彼女は無傷で、ちゃんと息をしていた。しかし、ちょっと熱があった。

 額に当てた私の獣の手に、彼女がうつらうつらしながら触れる。そして、小さな手できゅっと掴む。きっと、暖かな毛皮の感触が気に入ったのだろう。彼女を抱っこしてベッドの上に戻す。布団を掛けて離れようとしたが、彼女がなかなか手を離してくれない。
 爪で傷付けないよう、たっぷり十分はかけて、静かに彼女の手を剥がした。ふう、と大きく息をついて、今まで口元が緩んでいたことに気付く。

 何故だろう。彼女の手を剥がしただけなのに。
 首を傾げるのも束の間、彼女もそろそろ何か食べたかろうと、食事の用意に取りかかった。

 冷蔵庫から昨日のおかゆを取り出して火にかける。おかゆが温まるまでにミネラルウォーターをコップに注いで彼女に飲ませた。キッチンの上の棚から一本だけあったスプーンを出し、下の棚からプラスチックの深皿を出し、おかゆを入れ、彼女に渡した。その時、私はまた変化し忘れていることに気付いた。彼女は何も言わず、私の爪を避けて皿を手に取った。少しぐらい元の姿でも構わないだろう。どうせ、ちょっとの間住まわせるだけなのだから。

 彼女は昨日より意識がはっきりしているようで、私を真っ直ぐ見つめると、「きつねさん」と呟いた。
「秘密よ」と言う様に私が爪を立てて口に当てると、彼女はこくりと頷いて、唇に指を当てた。それから「うん、秘密」と笑って付け足した。ゾロアークが家賃を銀行引き落としにしてアパートに住んでいるなんて、子どもが言ったところで誰も信用しないだろうけれど、念の為。
 彼女はふうふう言っておかゆを冷ましながら食べ終わると、再び眠りに落ちた。熱は下がっていないが、顔色は随分とよくなっていた。

 今朝は冷え込むな、と感じて、普段使わないエアコンのスイッチを入れた。機嫌の悪そうな機械はたっぷりとかび臭い風を吐き出してから、部屋を暖め始めた。部屋の隅で彼女が小さく咳き込んだ。

 大丈夫かな、と覗き込む。彼女は平和そうな顔をして眠っている。子どもの寝顔というのは、何となく可愛らしい。もうちょっと彼女の顔を眺めていたかったが、重い腰を上げて食べた後を片付け、今度はテレビの電源を入れた。
 テレビが動くとすぐ、音量を最小にする。黒い箱の中から、今日も仏頂面の男性が朝の挨拶をする。
「今朝のニュースです」
 男性の言葉と同時に、今日も変わりのない、株の変動だのバトルサブウェイで誰かが連勝したのという、平和なニュースが流れる。しばらくすると天気予報が始まって、今日は寒の戻りだとのたまった。これから三日は続くと言う。
「寒いの?」
 ベッドの下から声がした。黒い毛玉が首から先だけを出して、こちらを見上げている。
「寒いらしいよ」
「嫌だなあ」
 そう言ってベッドの下に引っ込もうとした息子を掴んで外に引きずり出した。
「嫌だ、じゃないでしょ。森の中はもっと寒いんだから」
 私がそう言うと、息子は不貞腐れたようにそっぽを向いて体を丸めた。

 私は嘆息して立ち上がると、しばらく彼女の為の買い物や何かで動き回った。このアパートを借りた時にもらった説明書の束を探し当て、その中のひとつと睨めっこしながらエアコンのフィルターを磨いていると、息子が近寄って私に声を掛けてきた。

「森に行く話、どうなったの」
 私は黙っていた。熱心にフィルターに雑巾がけしている振りをしながら。しかし、そんな真似はいつまでも続くものではない。
「流れたよ。ゴタゴタで」
 私はため息を吐き出すように言った。息子はふうん、と呟くと、居心地悪そうに部屋の隅っこで丸くなった。

 私は息子を横目で見ながら、彼女の世話を続けていた。


 彼女の熱が下がったのは、彼女を保護してから三日目の朝だった。

 まだ少し疲れが溜まっている様子だったが、ベッドから起き出して、ちゃぶ台についておかゆを食べるようになっていた。彼女が私の膝の上に乗っかった。それまでもちょくちょく、体調がよい時は私に引っ付いてきたから、特に気にもしなかった。必ず変化していない時に引っ付くから、毛皮の感触が気に入っているのだろう。
 私はポケモン用の茶色い丸薬みたいな朝食を皿に開け、黒い箱の中でやっている朝のニュースを見つめる。時折、私の朝食に伸びる彼女の小さな手を払いながら。

 今日は寒いですが、明日は気温も上がって春の陽気になります。そう締めくくって天気予報が終わった。食べ終わった後の食器を取り上げ、流し台に向かう。「きつねさん、きつねさん」と言って彼女が足元にチョロチョロ付いて回った。食器を洗う為に人の姿に変化すると、つまらなさそうに離れていった。何だか可笑しくなって、私は食器を洗いながらくっくっと笑った。
 彼女をベッドに追い立て、ドレッサーにどんと鎮座しているパソコンの電源を入れる。四角い機械はブーンと唸り声を上げてノロノロと立ち上がる準備をした。

 そこでやっと息子のちび狐が起きてきたので、「朝食は机の上」と簡潔に告げた。「うん」とくぐもった声がして、ガサガサと袋を漁る音が聞こえた。私は背中でそれを聞きつつ、寝ぼけたパソコンを叩き起こすように、カチカチと忙しなくマウスのクリック音を鳴らした。

 まず、職場の上司宛てにメールを送る。それから、ウェブブラウザの検索窓に単語を入れて、少し調べ物をした。調べていることが分かるかどうか不安だったが、チンケなホームページ上にその情報は出てきてくれた。その情報を頭に入れて、パソコンの電源を切る。
 ちゃぶ台の方を向くと、息子がポケモンフーズの箱に頭から突っ込んで出られなくなっていた。私はあきれながら、彼の尻尾を掴んで箱から引きずり出した。息子はまた、不貞腐れたような顔をした。


 次の日の朝は、天気予報が言った通り気温が上がった。けれど、日が昇ったばかりのこの時間帯は、冬の名残か、少し肌寒かった。

 私は彼女を連れて、小さな施設の前に立っていた。頭の中で、前日に調べたホームページの情報と、目の前の「雷文こども園」と書かれた小さな標識を何度も照らし合わせた。
 私の隣で、彼女が眠たげに目を擦っている。人間の姿の私と、大人しく手をつないでいる。ゾロアークの姿でないと、前は近寄ってこなかった。その“前”が昨日のことだと思うと、何故だか息苦しさを感じた。

 彼女から意識して目を離すと、雷文こども園を囲む、淡い桃色を掲げた並木を眺めた。

 この日の為に、彼女にあの木の花と同じ桃色の服を買ったが、あまり似合っていない。彼女の夜色の髪には、私の髪のような濃い紅色の方が合っていたかもしれない。苦笑は上手くいかず、すぐに消えた。

 私の手に包まれた彼女の小さな手。

 私はそっと、手を開く。

 私の腰ぐらいしかない彼女が、私を見上げている。

「待ってて。ここで、待っててね」
 通じるはずのない言葉を彼女に掛けて、出来る限り優しく、彼女の肩に触れた。そして、彼女に背を向け、足早にその場を去った。

 淡桃色の花びらが肩に落ちた。それを払い落として、私は前に進む。振り返らない。少女が付いてくるのが分かる。でも止まらない。止まれない。

 少女を引き離そうと、足を速めていく。少女が離れていく。


 帰ったら、家にある子ども服を処分してしまおう。レトルトのおかゆの袋もいっぱいあるけれど、私は食べないから、いらない。それも捨ててしまおう。絆創膏も、ブラシも、全部全部、捨ててしまおう。
 そして、森に帰るんだ。スーを――息子のゾロアを連れて、私は森に帰る。街に住んだことのある変わり者のゾロアークとして、森の中で過ごす。もう二度と彼女に会うことはない。


「……さ、ん! 母さん!」

 私は雷で打たれたようにその場に足を止めた。
 まるで悲鳴のように、その声は春空に響いた。

 たった三日なのに、どうして。私は心の中で叫び声を上げた。愛着なんて湧くはずがない。所詮は、人間の子どもとゾロアーク。仲良しになれても、家族にはなれない。
「母さん」
 幻影で姿を偽るだけの私に、彼女の母親は出来ない。
「母さん、行かないで、母さん」
 後ろで少女が転ぶ音がした。涙の匂いがした。

「母さん、母さん……」

 私は振り返った。
 見てはいけなかったのに。
 地面に突っ伏して泣きじゃくる、あの子の姿なんて。

 ふらふらと、私は何かに取り憑かれたみたいに彼女の方へ歩いた。
 彼女が泣いている。あの子が。
「母さん」と言って泣いている。

 私は母親がやるように、膝を付いて、彼女の脇をそっと抱きかかえて、膝の上に乗せた。私に母親なんて出来ないのに。彼女と目を合わせていた。
 彼女は蛇口でも捻ったみたいに、ぴたりと泣くのをやめていた。ホッとしたような柔らかな光と、不安気な光が瞳の中で喧嘩していた。ごめんね、と謝る代わりに、私は彼女を腕の中にしっかり抱えて、歩き出した。

 彼女は嬉しそうに、私の仮初の姿に頬を寄せる。
「まずは、貴女に似合う紅色の服を買わないとね」
 家族になんてなれないはずなのに。

 私と彼女は、桃色の並木道をゆっくり帰っていった。





「何、それ?」
 家に帰るなり、息子が不機嫌そうな声を上げた。
 私は片手に子ども、もう片方の手に大量の買い物袋を提げて、難儀しながら部屋のドアを閉めていた。
「何、じゃないでしょ。昨日までうちにいた子どもじゃない」
「捨ててきたんじゃないの?」
「うちで育てることにしたの」
 全くもう、と私は鼻の穴を膨らませる。ゾロアとゾロアークの会話なんて、人間の彼女にはガウガウ鳴いているようにしか聞こえないからいいものの、いや、やっぱりよくない。

 買い物袋と彼女を下ろし、変化を解く。新しい服を取り出して、布地を傷付けないよう注意して爪でタグを切った。
「スーがお兄ちゃんだからね。しっかりしなさい」
 言った後で、気付いた。彼はもうすぐここを出ていくのに。
「じゃあ、いいよ。分かった」
 なのに、彼は気にしていない風に振る舞っている。

 酷なことを言ってしまった。
「ごめんなさい」
 謝罪の言葉も、背を向けた彼には届かない。
 私はため息をついて、黙々とタグを切った。彼女の為に買った服が、うず高く積み上げられていく。こんなことで、この先大丈夫なのだろうか。自分の息子もろくに育てられない私が、人間の子どもの母親なんて出来るのだろうか?

 不意に、私の隣でタグ切りを見ていた少女がぽーんと飛び出した。狭い部屋の中をあっという間にこっちの端からあっちの端まで走っていって、背を向けてぼんやりしていた私の息子に手を伸ばした。

 そんなことは今までなかった、というか、息子と彼女が双方寝てばかりで顔を合わせていなかったので、私はあ然としていた。あ然としている私の目の前で、彼女は息子の耳を引っ掴み、暴れる息子を取り押さえようと四苦八苦している。息子は怒ったようにわめいている。

「きつねさん、きつねさん、きつねさん!」
 息子が吠える声に負けじと、彼女が声をはり上げる。彼女の腕から逃れようと、息子が足をばたつかせる。そこでようやく、我に返った。事態を収拾しなければと、彼女に手を上げようとし

 人間を殴っちゃ、だめ。とにかく脆いんだから。

 振り下ろそうとした腕は、急激に失速して、彼女の頭に軽くぽん、と乗るだけに留まった。
「……きつねさんつかまえた」
 撫でられたと勘違いしたのか、丸くしていた目を細めて、彼女は満面の笑みで私にゾロアを見せる。
 それは私の息子だ。見せられても困る。

「それは貴女のお兄ちゃんよ。強く掴んじゃだめ。離してあげて」
 だめ元で手話を試みるが、失敗に終わる。彼女は面白そうに私の手の動きを真似るだけだった。

 私はちょっと考えると、人の姿に変化した。途端に彼女がつまらなさそうな顔をする。そのままの姿でドレッサーに向かい、引き出しを開ける。
「きつねさん、母さんにそっくりだよ。きつねさん、母さんみたいに進化するの?」
「だあーもう! 離せよちび! 僕のひげを掴むなあ!」
「これが母さんみたいな長い髪になるの?」
「頭のふさを掴むな! はげる! はげるから!」
 ひとりと一匹が大騒ぎしている。ごめんねスー、ちょっと待っててね。

 目当ての物はすぐ見つかった。私は紙とペンを手にちゃぶ台につき、サラサラと色付きのメモ用紙に文字を書いた。

 変わり者だ、と森に住むゾロアークたちにはよく言われる。人間に興味があるから、というその理由だけで街に住み、人間に交じって生活する為に手話と文字を学んだ私は、確かに変わっていると思う。けれど、人間たちと送る生活は、森の中よりもずっと刺激的で、楽しい。

 文字を書き終わると、息子を玩具にしている彼女の背中を軽く叩いて、黄色のメモ用紙をよく見えるよう掲げた。彼女はキョトンとした顔でメモ用紙の黄色を見、そしてまた何事もなかったかのように遊び始めた。

 メモ用紙を裏返すと、教科書のお手本にしたいぐらい綺麗な文字が並んでいる。
「その子は貴女の兄です。玩具にしてはいけませんよ」
 書き直して、見せる。
「そのこは あなたの あに です。 おもちゃに しては いけませんよ」
 しかし彼女はキョトンとして、何事もなかったかのように息子を抱き締めている。

 もしかして、と思い、私はメモ帳を数ページ破って、それぞれに文字を書き並べた。
「なまえは?」
「どこから きたの?」
「いくつ?」
「すきな たべものは?」
「きらいな たべものは?」
 しかし、彼女はどの紙にも等しく興味を示さない。
 文字が読めないのだ。

 私はすっかり途方に暮れた。ポケモンの言葉は当然通じない。手話もだめ、筆談もだめでは、どうやって彼女とコミュニケーションを図ればよいのだろう?
 彼女を育てる自信が、急速に私の中から抜けてなくなってしまった。と同時に、今まで彼女を育てる自信があったことに、自分で吃驚する。

 やっぱりあの時、振り返らずに置いていくべきだったのだ、という思いが去来する。けれど、すぐさまうつ伏せで泣いている彼女の姿が脳裏に蘇ってきて、いや、連れて帰ってきて正解なのだ、と頭の中で声がする。
 どちらにしても、と私の中の冷静な部分が回転する。
 彼女に話しかける方法を考えないと。

 試しに、娘に向かって右手を出し、指文字をいくつか作ってみた。やはり分からない様子で、しかし面白いのか私の真似をする。そういえば、手話をやった時も私の真似をしていた。
 このまま、辛抱強く話しかけていけば、その内意味を理解するようになるかもしれない。その希望はある。

 ただ、手っ取り早く。
「ねーねー、この子のなまえ、なんていうの?」
 ゾロアを膝に乗せてベッドの上ではしゃぐ彼女に向かって、「スー」と指文字を作る。
「わかんないー」
 彼女はベッドの上をころころ転がって、床に落ちてしまった。
「ぎゃう!」
 刹那、電気にでも触れたみたいに、彼女が身を反らした。黒い小さな獣が娘の腕の中からベッドの下に潜り込む。

 血の匂いがした。
「何やってるの、スー!」
 思わず、大声を出した。子狐はベッドの下から、よく光る目で私を見つめていた。

 娘の手の甲から、血が流れていた。服の山を引っ繰り返し、救急箱を引きずり出しながら乱暴に転がして中身をぶち撒ける。そこから包帯を選び出して、娘の手にその白布を巻き付けた。

 白いガーゼ生地が、見る見る内に赤に染まっていく。私は娘の傷口を、包帯の上から手の平でそっと押さえた。
 息子を睨み付けると、彼は目を閉じて、ベッドの下の、奥の方に退いていった。彼を怒るのは筋違いなのに、分かっているのに。しかし、彼女を叱ることも出来ない。やり方が分からないから。娘は凍えて硬直した目で、傷口に視線を落としていた。


 次の日、私は職場に行った。職、というのがまた面白いもので、人間は畑を耕したり狩りに出たりしなくても、食事にありつけるのだ。その職が、一見食料にも、群れの存続に関係ないように見えても、回り回って関係あるのか、何らかの仕組みで金が手に入って生活を維持できる。非常に斬新な社会システムだと思う。
 ライモンシティの中心部にある建物に入り、「従業員用」のプレートを付けたドアを通る。二階にある、メタリックな青や銀で色付けられた、円形の部屋が私の職場だ。部屋に入ると、上司や同僚の皆が「よう」とか「休みはどうだった」とか言って挨拶してくれる。私は手話で挨拶を返しながら、部屋の入り口から一番遠い自分の椅子に向かおうとした。

「どうしたの、カミサカさん、隠し子?」
 気のよい同僚のひとりが、驚いたような声を上げた。
 彼は手話を知らないので、適当に笑って誤魔化す。
「どうしたの、その子。かわいい」
 私の脚に張り付いた少女に気付いて――よっぽど注意散漫な人でない限り目に入るだろうが――次々に付近の同僚たちが声を掛ける。どの人も第一声が「どうしたの?」もしくは「かわいい」であるのが、可笑しい。

「拾ったの」
 手話で言ってみるが、誰も見ていない。皆子どもに夢中だ。机にあるメモ帳とペンを取りに行きたいが、人の壁に囲まれ、脚には彼女が取り付き、一歩も歩ける状況ではなかった。

「かわいい。ねえ、カミサカさんの子ども?」
「いつの間に生んだの?」
「昨日までの休みの間?」
 どっと笑いが起こる。その中心にいる彼女は、ますます私に強くしがみついてきた。これ以上脚の血流を悪くされてもかなわないので、屈んで彼女を抱き上げ、前に進んだ。
「かわいいなあ。お母さん似だね」
 肩越しに彼女の顔を覗き込んだ同僚がコメントする。すると彼女はスルスルと下がっていって、私の胸に顔を埋めた。
「恥ずかしがり屋さんなんだねえ」「人見知りなんだねえ」と皆が異口同音に喋った。誰も彼も、口調がいつもより柔らかくなっている。

「おおい、ここ、託児所じゃないぞ。カミサカ、どうした? なんで連れてきた?」
 上司が私に声を掛けた。やっとのことで自分の席に辿り着いた私は、使い慣れた紙とペンを出して、意思の疎通を図った。
「先日、拾ったんです。文字が読めないので、名前や歳を聞けなくて困っているんです」
 少し考えて、「昨日は急に休みを頂いてすみません」と書き加えた。
 彼女はまだ私の胴体に張り付いている。上司のおじさんはメモを見て、ふむうと唸った。
「や、休みはな。メールくれたからいいんだが」

「あれ、カミサカさん、まだテレビ電話使ってないの?」
 隣席の同僚が横やりを入れる。私は新しい紙を破った。
「テレビ電話だと、何だか落ち着かなくて」
 本当は、うっかりゾロアークの姿で電話に出そうだからだった。実際問題、うっかり狐の姿のままゴミ出しをやったことが何度かあるのだ。ミスを誘発しそうなものは、設置しないに限る。
「連絡網とか、不便でしょ」と言いつつも、同僚はその実どうでもよさそうな口ぶりだった。彼の視線は私が連れてきた少女の方に行っていた。

 上司が同僚と私の会話を遮るように「ふむ!」と叫んだ。そして、紙をぐしゃ、と握り潰すと、中腰になって彼女の頭辺りに視線をやり、今から敵地に突撃するのかと見紛うような面構えで、寝起きで機嫌の悪い熊みたいな声で「嬢ちゃん、名前は?」と問うた。

 彼女がビクン、と動いて、さらに強く私に張り付いた。少女の動向を気にして集まってきた同僚たちが笑い声を上げる。
「ちょっと恐すぎますよ」
「その子でなくともビビりますよ」
 あけすけな物言いは、上司のおじさんがリングマみたいな厳つい面相の割に気の弱い、いい人だからだ。なめられている、と言い換えてもいい。同時に慕われてもいるが。

 上司リングマはうーむ、と唸ってから、野次馬になっていた女性職員のひとりに向けて手招きした。
「よし、お前、この子の名前聞け。うん」
 呼ばれた女性職員は、歳若い、人懐こそうな大きめの目鼻立ちの子だ。ポケモンでいえばヒメグマ辺りに見える。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
 女性職員もまた中腰になって少女に問うた。少しゆっくりすぎるくらいの、甘い口調で言う。しかし、彼女は顔を上げない。

「人見知りかなあ」
 ヒメグマの彼女は諦めたように去っていってしまった。
 それにつられたように他の同僚も三々五々散っていき、それぞれの職務に戻った。隣席の彼も椅子に座り直した。
「おおい、カミサカ。子ども連れて仕事出来んだろう。ちょっと向こうの方で誰かに面倒見させて」
 熊上司がそう言って彼女に手を触れた。
 途端に、鼓膜が破れん程の大音声が職場に響いた。

 悲鳴。の後にすすり泣き。

「あーあ、泣かした」「セクハラだ」という声がちらほら聞こえた。熊上司はそれを怒ることもせず、ただ首を捻って、
「普通に触ったんだがなあ」
 そうぼやきながら自分のデスクに帰っていった。

 私は彼女をあやしながら、その日の仕事を終えた。職場の仕事よりも、人見知りの権化みたいな彼女を抱え、同僚が側を通る度に泣きそうになる彼女を宥めすかして過ごすことの方が、骨の折れる大仕事だった。
 家に着き、ドアを閉めた途端に変化が解けた。息を吐いて、ついでに三和土に腰を下ろしそうになる。どうやら、思ったよりも疲れていたらしい。普段はそんなことないのに、と思いながら、早速靴を脱いで部屋の中を走り回る彼女を見た。その顔に、先程までの悲愴な雰囲気はない。帰り道、彼女を注意深く観察してみたら、どうやら手をつないで平気そうに歩いているように見えて、すれ違う通行人にも多大なストレスを感じているようだった。この調子では、間に誰か立てて彼女の名前を聞くまで、長い期間を要するだろう。しかし、早く他人にも慣れてもらわなければ。彼女は何といっても、人間なのだから。

 部屋の中に入ると、違和感を感じた。その理由はすぐに分かった。
 息子が、普段はベッドの下にいる彼が、ベッドの上にいたからだ。
「どうしたの?」
 息子は顎をベタッとシーツに付けて、どこか不貞腐れた目で私を見返した。
「……化けるの練習してた」
 言い終わると頭を上げ、後ろ足と尻尾で体を支えるようにして、化けた。
 黒狐の位置に現れ出た少年の顔にはびっしりと黒い獣毛が生え、頭には三角耳、お尻には尻尾が付いていた。
 息子はその姿を十秒と維持できずに、元の黒狐に戻った。
 その姿がベッドの上に落ちる。彼の視線が下に落ちる。

「前よりも上手になったわよ」
 私は彼から目を離し、そう言った。
「なってないよ」
 息子がベッドから降り、いつもの場所に潜り込んだ。

 馬鹿みたいに息子がいる辺りを見つめていた。そんなことをしても、ベッドに遮られて視界に息子の姿は映らない。娘がそろそろとベッドに近付いたが、手を突っ込もうとはせず、しゃがんで覗き見るだけだった。

 私はドサリとドレッサーの四角い椅子に腰を下ろした。後ろ手でパソコンのスイッチを入れ、低い起動音を聞いていた。古びた内蔵のファンが回り出す。ジーと耳障りな音がした。

 ピンポン、とチャイムの音がした。ドアの方を見る。もう一度ピンポン、と音がしてから重い腰を上げた。

 ドアに近付くと、熊上司が来たのだと分かった。薄いドア一枚隔てた向こう側なら、匂いで大体のことが分かる。鍵を開け、ドアを開こうとした私の背に、重い何かが突進してきた。
 体が海老反りになり、ドアノブをひっ掴んで何とか姿勢を戻した。下方から高い、大きな音が連続的に発せられた。思わず耳を塞ぎ、すわハイパーボイスか、と下に手を伸ばす。娘の髪に触れた。

 私が触れてもなお、警報装置のブザーのような音を出していた娘が、徐々に分かる言葉を発してきた。
「だめだめだめ、母さん、だめだめ、だめー!」
 ブザー音に混じって、「だめ」と「母さん」だけ判別できた。
 何がだめなのだろう。魚眼レンズを覗いてみる。熊が扉の前でつっ立っている。片方の手に濃い緑色のビニール袋を提げ、空いた手で頭を掻いている。私がドアを開こうとすると、やはり彼女はわんわん騒ぐ。

 彼女は他人が恐いのだ。
「あのおじさんは恐くないよ」と一応手話で伝えてから、このままドアの前で騒がれても困るので、抱きかかえて部屋の奥に運んだ。彼女を置き、くるりと向きを変え、扉へ向かうと、磁石のN極とS極みたいにツーッと私の方に走り寄ってきた。

 埒が明かない。
 強引にドアの方へ行こうとすると、彼女が脚にしがみついた。まるで足枷をはめているようだ。仕方ない、このまま脚に張っ付けて行こうとして、そこでやっと何が「だめ」だったのか分かった。

 人に化けると、彼女は手を離してコロンと転がった。
 私は表向き、ポケモンを持っていないことになっている。モンスターボールをどうしても手元に置く気になれなかったし、息子や自分を「手持ちのポケモン」と称するのに抵抗があったので、そういうことにしている。
 一見さんの、宅配の兄ちゃんならまだしも、ゾロアークの姿で知り人の応対に出たら、不味い。「あの人はポケモンを持っていないはずなのに、家にゾロアークがいた。もしかして」なんて噂が立ったら、困る。人に紛れて人と同じように暮らす、この生活が気に入っているのである。

 私は屈んで、手刀を切った。
「ありがとう」
 彼女も真似して手刀を切って、にっこり笑う。いい子だな、と素直に思うと同時に、狐の姿で人前に出てはならないことを、知らない内に、文字より先に、彼女に分からせていたことに罪悪感を覚えた。

 ドアを開ける。熊上司と目が合ったので、とりあえず曖昧に笑った。相手は勝手に解釈してくれたようで、
「俺、嫌われてるなあ。あの、拾いっ子」
 顔は笑ってはいるが、とても寂しげだった。反抗期の娘がいると聞く。歳は違うが、だぶってしまうのだろう。

 彼は持っていた緑のビニール袋を重たそうに持ち直すと、
「ほれ」
 私に寄こした。
「何ですか、これ」
 見た目通りに重たい袋を腕で支え、中を覗く。八ミリのカセットテープがひとつと、銀色と青の丸みを帯びたナニモノカが入っている。重さからして金属。機械だろう。

「今日来た人見知りの拾いっ子のことな、ワイフに話したら、声だけならいいんじゃないかって言うんだよ。そんで、な」
 熊上司は頭を掻き掻き、朴訥に今しがた渡した機械の説明をした。

 銀色の機械はカセットデッキ、カセットテープには彼の妻の声で録音した、日常に必要そうな言葉が入っているとのこと。
「えーっと、何だったかなァ」を間に何回も挟んだ彼の話を要約すると、こういうことだった。
「ありがとうございます。とても助かります」
 玄関に常備している紙とペンを取り上げ、上司に見せる。
「いやあ、俺は何もやってないよ」
 そう言いながら手ぶらで帰る上司の背中は、しかし満更でもなさそうだった。

 部屋に戻ると早速カセットデッキのコンセントを電源につなげ、テープを手の中で回して、まずはA面をセットする。テープを入れるプラスチックケースに、親切にも上司の妻君からのメモが入っていた。
 何秒からは「おはよう」、何秒からは「おやすみなさい」、何秒からはまた別の言葉と、事細かに流水を思わせる綺麗な文字で書き記されていた。
 後半には「お名前は?」と「おいくつ?」が記されていた。では早速、それを再生してみようかとカセットデッキの三角マークの付いたボタンを押した。

「おはよう」
 数秒間があって、
「行ってらっしゃい」
「おかえりなさい」
 と続く。再生しやすいように考えてくれたのだろうか。B面の後ろには、指文字の練習に使えるよう、一音ずつ区切ってあいうえおを入れてあるらしい。気が利いている。嬉しさを感じつつ、一旦、四角マークの停止ボタンを押した。さて、問題の言葉は何秒からだろう。

「母さん、何それ?」
 興味を示したのか、息子がベッドの下から這い出てきた。少し元気そうな様子だ。よかった。
「彼女に言葉を教えようと思って」と言いながら、娘を手招きする。彼女はドレッサーに張り付いていて、こちらに目をやろうともしない。

 何に気を取られているのだろうか。
 まつ毛同士がぶつかるぐらい近くに寄って、やっと娘が私に気付いた。
 娘は私のパソコンが気になっていたようだ。小さなブラウン管が煌々と光っている。そういえば、電源を入れたままだった。

 片目はブラウン管を捉えたまま、彼女が喋った。
「母さん、これ、前に見たパソコンとちがうよ」

 ……今、何て言った?

 前に見た。彼女はそう言ったのだ。前に見た、パソコン。ひょっとしたら、彼女がいた場所――施設の手がかりが掴めるかもしれない。
 私はさっとメモを引っ繰り返した。しかし、妻君のメモに「前は、どこで、どんな状況下でパソコンを見たの、よければその時期の貴女の生育環境含めて詳しく聞かせて」なんていう便利な言葉は入っていなかった。
 それに近い例文を探し出す。まずは「どこで?」からいこう。早送りボタンを押し、停止ボタンを押してから、逸る気持ちを押さえるように三角マークの付いたボタンをゆっくり押し込んだ。

 ちょっと早送りしすぎたらしい。
「どういう風に?」
 ちょっと待ってタンマ今のなし、という例文がこの次に入っていた、ということは全くなく、従って彼女もその問いに従って答えを発した。小首を傾げてから、

「前のはねえ……」





 席についている私の元に、熊上司がやってきた。手には昨日と同じような濃い緑色のビニール袋を提げている。
「あー、昨日の。あれ、どうだったかなあ」
 思い出したように、ワイフが気にしててなァ、と付け足す。
「ありがとうございます。大変役に立っています」
 現在進行形で、書く。その時は本当だったのだ。
 上司はそれを読むと、「そうかあ、そうかあ、ならよかった」と笑い、「邪魔じゃなかったら、もらってくれ」と言って、ビニール袋を机の角に置いた。プラスチックの当たる軽い音がした。
 謝意を表す為に手刀を切る。熊上司は手を大きく振って、
「ワイフが好きでやってんだから、気にするな」
 そう言って、大股で去っていった。
 袋の中身は三つのカセットテープだった。案外、この録音テープも彼の発案かもしれないな、と去っていく背中を見ながら何となしにそう思った。

 カメラ映像を見る。円形の部屋、職場の壁の上方をぐるりと囲んで、モニタがやや俯きがちに設置されている。
 モニタの向こうで、見るからにガタイのいいドリュウズが、相手のボスゴドラにドリル部分からぶつかっていった。重そうなボスゴドラが、実はソフビ人形でした、という調子で軽々と飛んだ。飛んだ先、天井の蛍光灯カバーが三つ続けて弾け飛び、座席の端の手すり棒に落下して、丈夫な合金で出来た棒がばっきり折れた。
 バトルサブウェイ。地下鉄で行われるバトルの監視員。それが私の仕事である。

 といってもその中身は要するに雑用係で、カメラで見える部分は拾っとけというざっくばらんな仕事である。おおらかな分、仕事は多岐に渡る。今みたいにバトルで地下鉄の内装が壊れたら報告する。バトルが長引くとダイヤが乱れるからそれも報告する。誰かが四十九連勝したらそれも報告する。すごいバトルがあったらとりあえず報告しとく。そしてビデオに録っておく。そうして貯まったバトルビデオは、一般人を惹き付ける広報材料にも、玄人の研究資料にもなる。
 仕事が多岐に渡る分、その内容は浅い。大体が報告どまり、後は専門の人に任せる感じの、気楽な仕事だ。それでも何故か給料は貰える。人間の街は不思議だ。

 手元のキーボードをパチパチと叩いて、車両破損を報告する。送ったデータは親コンピュータの所に送られて一括で管理される。
「またサブウェイマスターの所かあ」
 近くにいる同僚が笑った。
「あそこ、大分痛んでたもんね」
 別の同僚が笑い、私たちはまた作業に戻る。

 しかし、基本的に何事もなく過ぎる。地下鉄は頑丈に作ってあって、やわな攻撃では傷ひとつ付かない。壊れるのは余程強い奴が来た時か、経年劣化で寿命が来た時だ。
 だから、同僚たちは頻繁に席を立ったり、お茶を飲んだりする。私も背伸びをした。いいバトルがあったら、ビデオをダビングしてもらって、娘に見せようか。そんなことを考えた。

 バトルサブウェイを出ると、どっぷり日が暮れていた。
 勤務時間が終わり、がさりと下げたビニール袋が急に重く感じられた。
 昨日の。あれ、どうだったかなあ。上司の声が耳に蘇る。

 どうだったかなあ。

 どうもこうもありませんよ、と呟いた声は夜空に消える。
 あの子のこと、多少なりとも知れましたから。

「どういう風に?」そう、こんな風に。

「前のはねえ」

 可愛らしく小首を傾げる彼女。その言葉が、彼女と同じように幼くあどけなく、要領を得ないものであったなら、却ってどんなによかっただろう。

「モニタとハードディスクが、別々に付いてたの」
 彼女は目を閉じて、思い出そうとするように。
「ハードディスクもひとつじゃなくて、何個も並列してつなげてあったよ」
 脚をゆらゆら揺らす。その行動は子どものそれなのに。
「それでねえ、入力端子の線が別の部屋に伸びてた」
 ぱっと、目を開く。鮮やかな紅色の瞳が見えた。
「入力の方はね、カメラが何台もあって、マイクとか」
 手が髪を梳く。少し困った時の彼女の癖。
「あと、体に付けるのも」

 あって、と言いかけた娘の体を、最後まで言わせないように、私はギュッと抱き締めた。彼女の記憶に、私の方が耐え切れなかった。
「……母さん?」
 黙っていた。何も言えなかった。ジーと低い音がして、テープが回り続けていた。

 何か酷いことをされていたんじゃないかという、私の中の漠とした予感が恐い。その記憶に触れてしまうんじゃないかと思うと、その冷酷さに彼女が気付いて、その為に、この小さな体が壊れてしまいそうで、それが恐い。

 人として。

「お名前は?」
 優しい、女性の声を出すカセットデッキ。

「ひけんたい」
 驚いて、思わず私は体から彼女を引き離して、これ以上ない程真っ直ぐに目を見た。
 彼女は、不思議そうに私を見返して、言った。

「名前、でしょ? 私、そう呼ばれてたよ」
 彼女は続けてこうも言った。
「母さん、どうして泣いてるの?」
 私の頬に、彼女の小さな手が伸びる。

 あの日、彼女の体には古傷があった。その時は気にも留めなかったが、きっとそれは、彼女のそれまでを示すものだったのだろう。何故、こんな幼い子を。どうして、そんな仕打ちを。
 そんなことをしたのが、人間であるのが辛かった。彼女と同じ、私の好きな、人間であることが辛かった。
 彼女の小さな手が涙を拭う。それを見ながら、私はひとつのことを誓った。

 この子を幸せにしてやろう。人として、幸せに生きさせるんだ。
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