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ホタルノヒカリ
 ホタル、ホタル、……なぜ死んだ。


 † short story

 † ホタルノヒカリ


 連日の雨が気まぐれな夕立に変わり、花が緑に変わり、年の満ちた虫たちが季節の歌を奏でるこの頃。
 私はいつも、この時期になるとあの年の夏を思い出す。
 私が過ごした年月の中で、一番短く、一番暑かった、あの夏。

 止んだばかりの雨の後を、容赦なく太陽が照りつけて、おおよそ人間が嫌うあの纏わり付く感じが、私の肌に接していた。
 人が嫌うこの感じが、私は好きだった。ジメジメして、焼けるように暑いこの季節が好きだった。あの頃は。


 青い草の匂い。


 私とパートナーはあの夏、毎日のように秘密基地へと繰り出していた。
 町を抜け、道を外れ、背の低い、青く青く、地についた青の森の中を、かき分けかき分け、時に手を切り、脛を切られながら、クモの巣を破り、枝を折って、私たちはあの場所へ駆け抜けたものだ。

 青く背の低い木立が、途切れ、見上げるような、私など及びも付かぬ枯茶色の古老たちが鎮(しず)かに息をする。
 その古木が場所を譲る一箇所、かつて古老たちも頭を垂れたであろう大樹の、亡き後がそこにあった。

 強い陽射しから守られ、打つような夕立から守られ、誰が刻んだか、円卓と名付けられた大きな切り株。
 あの夏、毎日、毎日、私たちはそこに集まり、

 夏の長い日が許す限り、

 語り、遊び、喋り尽くして言葉がなくなってしまっても、あそこにいたものだ。


 とても甘い匂い。


 道中で見つけたモモンの実を、ポケットに大事そうに仕舞い込んだ。
 秘密の場所に着き、自慢するつもりでポケットから取り出した、その手には、潰れたモモンの実と、透明な果汁と、
 そして、雨上がりのような濃密な匂い。

 私と、私の幼なじみたちは本気で笑った。
 前の姿が何だったか分からないくらいひどく潰れた果肉を手に、しばらく呆然としていた彼も、大声で笑い出した。
 幼なじみのパートナーたちも、つられて笑い出す。
 秘密基地に笑い声が響き、普段滅多に動かない古木たちの葉がそよいだ。

 そして、私たちは基地を飛び出し、バトルをした。
 静かな森に笑い声と、技の指示を出す大声が響き、炎が飛び、鋭い葉が舞い、私は水を跳ね散らかした。

 幼く、ただ技をぶつけ合うだけのポケモンバトルが、あの頃の私たちにはたまらない楽しみで、至福だった。

 そして、ホタルはいつも負けた。

 水を使う私にはもちろん、草を操るもう一人の幼なじみにも負けた。

 ホタルの投げ出す火の粉は貧弱で、種を背に抱く幼なじみにも吹けば飛ぶようだと言われた。
 ポケモンである私たちにはおろか、逸れた炎が当たっても、人の子であるパートナーたちに火傷させることができなかった。

 そんな、ホタルのような淡くて優しい光だった。
 儚い炎だった。


 日が沈んだ。


 辺りは急速に濃い闇に飲み込まれ、昼に蓄えられた地熱が、冷たい夜風の中に、次の日の朝露となって消える。
 どの季節でも同じ摂理。
 ただ、夏の間はそれが緩やかなだけのこと。

 それを知ったのはあの夏よりもずっと後のことで、だからどうしたというわけではないが、ただ、
 あの頃はそれを知る由もなく、夜は冷たく、暗いものだった。

 夜が明るく、暖かかったのは、ホタルが死んだあの夜だけだ。


 少年の声。


 私のパートナーの声ではない。
 もう一人の、草を操る幼なじみの方のパートナーだ。

 行こう、と言う。どこに?
 ここに負けない、面白い場所を見つけたのだという。

 短い会話をかわして、彼らはそこへ行くことに決めた。
 ホタルのパートナーも、あまり乗り気ではなかったが結局行くことにした。

 森を出て、町に戻り、いつも森へ行く出口とは逆の出口を出た。

 そこからどう進んだのかは、記憶にない。

 ただ、焼けるように暑かったことだけ覚えている。


 都会の匂い。


 アスファルト、側溝を流れる水、車が出すガスに、弁当の空箱で溢れたゴミ箱。
 人の匂い、群集の匂い、そういったものに慣れることはあっても、それに慣れることはない。

 アスファルトは私が知る地面とは違うし、側溝の水は私が泳いだどの川とも違うから。
 車の匂いに慣れることはない。それは、生理的なものだ。

 ゴミ箱の匂いは、あの日を思い出すからだ。

 あの場所がどこにあるのか、私の記憶には最早なく、もう二度とそこに辿り着くことはできない。


 あの日、少年二人と少女一人、そして私を含めたポケモン三匹が行ったのは、ゴミ捨て場だった。
 人の営み、人とポケモンの営みの中で排除されたもの、不要とされたものが集まる、酷い、場所だった。

 かつて必要とされたものが、その意味を失って、朽ちることもなく、天からの助けが来ることもなく。

 紙にくるまれたモモンの実が落ちていた。
 薄汚れ、穴の開いた紙から果肉が見えていた。
 果汁は乾ききり、茶色に潰れ、干からびた果実は、かつて潤い、誰かの口の中に入るのを待っていた時を思わせた。

 私には、ただの廃材の山だが、パートナーたちには宝の山に見えたらしい。
 子ども向けらしい、赤や青に彩色されたプラスチックの玩具の中に時折混じる、青や黒の珍しいモンスターボールを拾い上げては、これは何、どういうボールだといちいち注釈をつけていた。


 今ではお金を出せば手に入る、些細なものだ。ましてや、壊れたものなど。

 しかし、その時は滅多に見かけることのないものだった。


 私の興味を引いたのは、割れたガラスのビンだった。
 濃く、川とも空とも違う青のそれは、私を引き止めた。

 私は夕日にそれをかざした。
 世界は夜に似た青に変わり、荒廃が支配していたゴミ捨て場に、うらぶれた物悲しさを添えた。

 危ないよ、と言って私の手からガラスの欠片を取り上げたのは、ホタルのパートナーだった。

 ねえ、もう帰ろうよ、とホタルのパートナーが言った。
 もうちょっとだけ。
 もう少しだけ。
 そう少年たちは答えた。


 その頃は、日が沈むのがあんなに速いとは、知らなかった。誰も。
 私には未だ、朱色に変わった太陽がどうしてあんなに速く姿を隠すのか、分からないでいる。


 空を紺碧が覆い、急速に大地から熱を奪っていく。
 熱を持ち続ける術のない、プラスチックの山が凍えるのは、速かった。

 私のパートナーたちは、予期しない暗さと冷たさに、にわかに慌てた。
 しかし、表には出さない。
 冷静に、帰ろう、と言って、帰ろうとした。
 私と、草の幼なじみと、少年たちはゴミの山を下りようとした。

 今までのゴミとは違う、悪臭を練込めたような嫌な匂いがした。
 溶けたプラスチック、車という車の排ガス、缶で溢れた側溝、骨組みを剥き出した廃屋。
 それは生物の匂いを持っていたが、それ以上に、毒を強調する匂いを放っていた。


 紫の、ヘドロが月の光を浴びて生まれたと言われるポケモン、その進化形。
 自重に潰されているかのように瞼は半開きで、そこから覗く目が、暗い。

 ベトベトン。
 人の住む街から排斥され、森にも山にも住むことを許されなかったゴミ捨て場の主がそこにいた。

 主は低い唸り声を立てて、私たちのパートナーに手を伸ばした。


 私と草の幼なじみは身を翻してその場を逃げ出した。それは生物として、当然の脊髄反射だった。
 凍りついていた少年二人も、私たちに引かれるように足を動かした。
 昼間、日の光にあんなにも輝いていた珍しいボールをその場に捨てて。


 今ならぴったりの言葉で表現できる。とんずらだ。
 臆病で浅はかだった私たちは、まの抜けた四文字がしっくり来る逃走をしたのだ。

 ホタルとそのパートナーのことなど、気にもとめずに。


 ゴミ捨て場の匂いがもうしない所まで来て、しかし、私の体に染み付いた匂いはどうしても取れない。
 まるで、遠くまでゴミ捨て場を連れてきてしまったような、そんな感覚に襲われた。

 私は匂いを振り払う。しかし匂いは強く、私の皮膚の隙間に染みこんで離れない。
 パートナーが息を整え、辺りの空気を吸い、吐き、その冷たさを感じられる頃になって、やっとホタルと少女のことを思い出した。

 私たち全員が息を呑んだ。
 喉までのぼってくる恐怖と後悔で、頭の中まで真っ青になったようだった。
 夜よりも暗いものに体温を奪われたかのように、凍えた。
 誰も、何も言葉にしなかったが、何をしてしまったかはしっかり分かっていた。


 私たちはホタルたちを置いてきてしまったのだ。

 そんなはずはない。彼女たちも逃げたちょっとはぐれただけ、
 そんな都合のいい考えに、頭の中を無理矢理変えてしまいたかった。
 けれど、はっきり分かっていた。逃げる時にホタルと少女を見た。そして、そのまま通り過ぎた。

 少年は、震える声で、どうしようと言った。
 私も同じことを考えていた。そしてその答えを知っていた。
 少年もその答えを知っているが、口に出すことができない。

 震えていた。

 しかし、答えは分かっているから、少年たちは、震えながら歩き出した。

 私たちは、後に続いた。


 月明かり、乾いた風と生物の匂い。


 私たちがゴミ捨て場に戻ったとき、応戦していたのは、やはりホタルだった。

 少女はホタルの後ろで、おびえながら、見ていることしかできなかった。
 いや、悲しんでいたのか。


 ホタルはベトベトンが撃ち出す腐臭のする爆弾を受けながら、火を吹いていた。

 それは血が吹き出しているようだった。

 ベトベトンが何度も爆弾を打つ。

 そのたびに爆弾を身に受け、倒れ、咆哮を上げて立ち上がるのだ。

 その身が汚れ、ホタルの元の色がなんだったか、月の下では分からない。

 あまりの腐臭に、ホタルの匂いももう、分からない。

 けれどホタルは立ち上がるのだ。

 倒れるたび、喉から血を噴くような咆哮を上げて立ち上がる。

 小さな体の、何倍もある紅蓮の炎を吐く。

 ホタルの喉は擦り切れ、けぇ、けぇ、と嫌な咳をし始め、それでも火を吹いた。

 とうとう咆哮を上げることすらできなくなって、息が入るのか分からないその喉から、何度も火を吹き出す。

 後ろ脚が立つ力を無くし、前足で体を起こし、もう体に構うことのなくなった炎は、遠慮無く、もっと勢い良く吐きだされた。

 ホタルの尾の炎が、眩く、本当に眩く光った。

 そこだけ太陽があるかのように、見たものの目を潰す力強さで。


 少年たちは、そのあまりの眩さに目を覆った。
 草の幼なじみも。
 私は、目を閉じることができずにいた。

 網膜を焼かれ、そのまま自分の体が燃えても構わない。
 そう思えるほど、強い生命の光だったから。


 あれは、ホタルの生命そのもの。


 そして最後に、ホタルは火を吹き出した。

 あの火の色は白……だったか。



 ホタルが着けた炎は、ゴミ捨て場に広がり、全てを飲み込んだ。

 炎が上がった。

 あれほど冷たかった夜は、太陽を得たかのように熱を帯びはじめた。

 炎の生み出す熱が、光が、容赦なく私の肌に、目に叩きつけられ、

 そして、全てが終わった。

 あの夏も、私たちの冒険も、ゴミ捨て場にあった全てのものも、ベトベトンも、

 ホタルの命も。


 思えば夏の夜が暑くなったのは、あの日からではないだろうか。


 その次の日からの顛末は、言うまでもない。
 消防車が来て、パトカーが来て、親に怒鳴られ、泣かれ、カメラとマイクが飛び交って、蝉は去ったのに騒々しい時が続いた。

 その中で、ホタルはひっそりと弔われた。
 私も、私のパートナーも誰も呼ばれなかった。

 私は、甲羅に染み付いたゴミ捨て場の匂いと、毎晩見る夢にしばらく苦しまされた。
 パートナーも、同じように苦しんでいただろう。
 昼の光を浴びるたび、ホタルの最期の光が眼の奥にちらつき、消えない腐臭にモモンの甘ったるい匂いさえかき消えた。


 私たちは冬から逃れて冬眠する亀のように、目を閉じ、自分の殻の中に篭ってその年の秋を過ごした。
 匂いが消え、毎晩見ていた夢が、一晩、二晩と間を空けるようになって、部屋から出られるようになって、日常はのろのろと動き始めた。

 冬が終わり、春が来て、夏の記憶も鮮烈さを失い、私とパートナーはポケモントレーナーとして旅立った。
 草の幼なじみも彼のパートナーと旅に出たが、旅の途中で何度か会ったきりだ。
 ホタルのパートナーは、別のヒトカゲを受け取って旅立ったと聞く。
 それっきり、会っていない。

 ただ、進化して姿が変わり、砲台を背に背負うようになっても、バッジを八つ集めても、どれだけ強くなっても、
 あの夏が私から消えることはない。

 どれだけ時が経っても。

 夏が来るたびに、

 ホタルを悼む、遠い思いと共に

 あの輝きを思い出す。

 ――ホタルノヒカリ。
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