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晩秋の案内者
 男がいた。
 男は晩秋の、枯葉も土に消える、茶色の濃淡ばかり続く道を歩いていた。
 その目の前を、紫炎の蝋燭が先導するように歩んでいた。


 † short story

 † 晩秋の案内者


 男は老けて見えた。細かい皺が畳まれた口元に、かつての力強さはない。黒い髪の中には白髪が交じり、男の髪を灰色に見せていた。
 男の腰には古びたモンスターボールベルト。男はリュックも背負わず、身ひとつで眠りゆく森の中を歩いていた。
 男には何もなかった。
 二親を随分前に亡くし、伴侶もいなかった。帰る家もなく、あちこちを転々とするだけ。親しい、と言える程の友人もいない。ただ、あちこちを旅して回るだけ。

 それでも、そんな生活が楽しかったのは、ポケモンがいたからだ。男には、生涯の友と言える、六匹のポケモンがいた。
 男は、六匹目のポケモンを弔ってきたところだった。
 タワーオブヘブン。
 天国に最も近いと言われる白色の塔に、男は最後のポケモンの亡骸を収め、そして、この森に入り込んだ。
 冬に近い秋の森は、男を拒むでもなく、歓迎するでもなく、ただそこに存在していた。
 地元の人々も入らない、虚ろな表情をする森に、男は引き寄せられるように、ふらふらと入り込んだ。

 茶色の、変わらぬ景色ばかり続く森は、少し深く分け入れば、もう自分がどこにいるか分からない。
 地元民さえ入らぬ訳がそこにあるのだ、と思いながら歩く男の目の前に、一匹のポケモンが姿を現した。
 蝋で出来た体に、ひとつ灯る紫苑の妖し火。
 ヒトモシ、と男が呟くと、その声に反応したかしないか、霊蝋はくるりと回って男を誘うように森の奥へ歩き始めた。
 男がその場に立ち止まっていると、振り返って、早く来いとばかり、小さな手を振り回した。

 男はふっと緩んだ口元に笑みを浮かべ、その後に付いて行った。
 ヒトモシ、火に呪を宿すゴーストポケモン。その灯火につられ、ヒトモシの道案内を受けた旅人は、いずれその命を吸い尽くされ、死に至るという。
 男は、分かっていてヒトモシの後を追った。
 どうせ何も持たぬ命、最期にこの小さなヒトモシにくれてやっても構うまいと思ったのだ。

 枯れ葉が混じる土の道、その先に揺らめく炎に、男はかつての友の面影を重ねた。

 男は、遠くカントーの地で生を受けた。その地の習いに従い、男はある一定の年齢になると、同郷の友人たちと共に、ポケモンを授かって旅に出た。
 困難な旅だった。
 まだ旅のいろはも諳んじ得ない最初の内は、余計に。
 しかし辛くはなかった。
 長い道中で、森で、山で、川で、何度相棒の名を呼んだことだろう。尾先に炎を灯した相棒は、彼が名を呼ぶ度に、嬉しそうに振り返り、時には男に駆け寄って抱きついた。

 その蜜月も終わり、相棒が一度目の進化を遂げ、彼が二匹目の仲間と出会った時、男はある壁にぶつかった。強さ、という壁。
 ある時はジムリーダー、ある時は同年代のライバルトレーナーという形で、その壁は事ある毎に男の前に立ちはだかってきた。その度に、男は知恵と仲間の力といくらかの偶然で、その壁を乗り切ってきた。その過程で、新たな仲間も出来た。
 六匹の仲間と八つのバッジを揃えた時、彼はトレーナーたちの祝宴の場である、ポケモンリーグに挑んだ。
 結果は惨敗だった。
 男は更なる高みを目指し、リーグ大会が開催される各地方を巡った。
 幾度も入賞者に名を連ね、たった一度だけだが、優勝もした。
 男はポケモンたちと何度も泣き、笑い、ずっと同じ時を過ごしてきた。

 ずっと同じ時を。

 気が付くと、ヒトモシが男を咎めるような目で見ていた。
 ごめん、と笑い、男は止まっていた足を動かす。ヒトモシはその様子を見て、満足気に頷き、再び歩み始めた。
 男は、思わずまた歩みを止めそうになって、けれど、歩き続けた。
 相変わらず茶色一色の景色の中に、鮮やかな、明るく懐かしい記憶が呼び覚まされたのだ。
 あの仕草は、男の二番目の仲間、はじめて自分の手でゲットした、あのポケモンに似ていた。
 そのポケモンは小さななりで、しかしその中に、大きな心と根性を秘めていた。彼はいつも自分より大きな相手に立ち向かって行き、強力な顎と前歯を使った一撃で、強固な殻も、鋼の装甲も、等しく削った。
 彼の前歯に、幾度世話になっただろう。
 彼は幾度と無くバトルの突破口を示し、道を示した。それは、男との旅路にも変わりなく。せっかちで、負けず嫌いで、誰よりも強さを求める事を是としながら、彼は彼より遅い男の歩みを、足を止めて待ってくれていた。
 男が追い付くと、嬉しそうに頷きながら、また歩き出すのだ。
 彼と同じ歩調で歩めていたら、あるいは、もっと高みへ昇れただろうか。

 最初に逝ったのは、彼だった。
 元より、長命な種族ではなかった。人より早く逝く者が多い事も、男は聞いて知っていた。
 それでも、心構えをしていても、別れは辛いものだった。
 最期の数日を、彼と共に故郷の草むらの近くで過ごした。彼が満足のいく最期を過ごせたかどうか、男は今もって自信がなかった。

 彼が逝った。と同時に、男は旅の道標も失った。

 彼を失った年、ポケモンリーグに出場した男の成績は惨憺たるものだった。かつての栄華はどこへ消えたのか。彼は敗北に敗北を重ね、いつしか日の当たる舞台から退場していった。
 それでもポケモンリーグに出場している間は幸せだった。
 戦いの中、ポケモンたちとひとつに合わさる呼吸。下層でも、リーグ参加者の中に自分の名が記される実在感。

 本当の艱難辛苦は、彼が二度目にポケモンを失った時――空いた穴を最早埋められず、リーグの参加条件、八つのジムバッジにさえ手が届かなくなった時にやってきた。

 ――なあ、ヒトモシ。
 男は前を歩くヒトモシに話し掛けた。
 いや、実際には声になっていなかったかもしれない。男は心の中で、男自身にその言葉を投げ掛けたのかもしれない。
 ――笑えるだろう。情けないだろう。俺は、戦えなくなって、はじめて、俺に何も無い事に気付いたんだ。俺には、何も無い。
 男には戦う事以外、何も無かった。今まで、戦う事を目標に、次の戦いに備えて強くなる事を目標に生きてきた。

 戦う事を除けば、男には何も無かった。家族も、友人も、帰る家も、何も。
 戦い、その高みに昇る事を目標に生きてきた男に、戦う事以外、生きる手立ても無かった。
 しかし男はチャンピオンでも、四天王でもなかった。ジムリーダーでもなかった。男は自分が何者でも無い事を知った。
 男は荒れた。今まで苦楽を共にしてきたポケモンたちに当たり、時には酷い言葉も投げ掛けた。
 男は嘆き悲しんだ。短くて半日、長くて一週間、男はひたすら嘆き悲しんで、泊まり込んだ宿の一室から出ようともしなかった。

 男が変わったのは、冷たい風の吹く朝、希求するように空を見上げる相棒の姿を見たからだった。
 姿が変わり、空を泳ぐ羽を手に入れた相棒は、何よりも空を飛ぶ事を喜びとしていた。
 ――そうだ、俺には何も無いが、ポケモンたちがいる。
 男はそっと相棒の肩に手をかけ、その背に乗った。
 相棒と共に高い空に飛び立ち、それから、旅の為の旅を始めたのだった。

 それからの年月は早かった。
 各地を飛び回りながら、その土地の景色を見、そしてまた飛び立つ事の繰り返し。
 飽きる事はなく、ただ、男が優勝者として名を輝かせる年が、ひとつ、またひとつと遠くなる事に年月の流れを感じた。
 もう一度、あの華やかな舞台に立つ事を夢見ながら、男はもう、新たにポケモンを育てる気力を無くしていた。最初に経験した彼との別れが、そうさせたのかもしれない。
 行きずりのバトルに会っても、もう、いつかのように、強さを追い求める事は無くなっていた。
 穏やかに、しかし早く、年月は流れていった。一匹、また一匹と、ポケモンたちは男の手の届かぬ所へ旅立って行った。
 最後に残ったポケモンとの別れが近い事を悟った彼は、流れ着いたイッシュ地方の、鎮魂の塔に程近い、フキヨセシティに仮の住まいを定めた。

 フキヨセは良い風が吹く町だった。
 空を飛ぶのが好きな相棒は、体調が許す限り、風に身を乗せて空を飛んだ。相棒は男をその背に乗せたがったが、相棒の身体を案じた男はそれを断り続けた。相棒が空を飛ぶ日が、一日置き、二日置きになると、男は相棒が好きな秋色の花を集めながら、郷里の風の匂いを花の中に探した。
 いつか来る定めの時に恐怖と警戒を抱きながら、相棒が空を飛ぶ日が、二日置き、一日置きと日を増していくと、男は束の間花を集める手を休め、相棒と過ごす時間を選ぶのだった。

 相棒の墓に、色褪せた秋色の花を手向けた時、男は何を思ったか。
 天に一番近いタワーオブヘブンの最上階に相棒を収め、全てを無くした男は、地元の人さえ入らない、塔近くの森に入り込んだ。

 その森には、ヒトモシがいるという。森に迷い込んだ人を、迷わせ、惑わし、その命を吸い込んで己の灯火とするという。

 男は、ヒトモシが揺らす紫炎を見つめていた。日を失くし、黒を強めていく景色の中で、その紫は明るく、優しく、懐かしささえ感じさせた。
 あのヒトモシは、男の二匹目のポケモンに似ている。ヒトモシはあの彼のように、男に先立って、男を待って、歩いていた。
 あのヒトモシは、男の最初の相棒に似ている。ヒトモシのあの火は、相棒が揺らしていたあの火と同じ高さにあるではないか。

 男は目を閉じた。目を閉じていても、自分が秋の最後の夜の、茶色の道の中を歩いている事が分かる。
 それは、ヒトモシの灯火が、男の瞼の裏を照らすからだ。
 いつしか、ヒトモシの紫炎は、優しい相棒の橙色の炎に変わり、男は白に変わっていく景色の中、相棒の尻尾の火を追いかけていた。



 男は目を開いた。森は消え、視界は開け、草原の中に白い塔がひとつ、藍色の天を指して建っていた。
 藍の天からは細かな白の結晶が現れ、それに触れた男の肌に、まだ柔い冷たさを記して溶け消えた。
 鐘が鳴る。
 相棒が眠る塔の上方で、誰かが蒼色のレクイエムを奏でていた。
 男は小さな白と紫炎の姿を探す。男の前に、あのヒトモシはいなかった。

 男は鐘の音と、反対の方角へ進む。
 フキヨセに着いた男は、仮住まいをさらうと、町の西方、田畑の中を通る長い滑走路の近傍にある、巨大な建築物へ向かう。扉を開き、一番最初に目に入った、空色の制服を着こなす青年に歩み寄り、男は口を開く。

 ――今からでも、空を目指す事は出来ますか。
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