長い小説短い小説漫画トップ案内ブログリンクweb拍手
呪い
「人を呪わば穴ふたつ」と口ずさみながら少女が登校した。古結晶子の携帯電話が鳴ったのは、それから一週間後のことだった。その時晶子はコーヒーを飲んでいた。
 電話の相手は言った。
 今、この町にのろいが蔓延している
 のろいの根源を探し出し、のろいを断ち切ってくれないか
 晶子はこう答えた。
 自分はしがない私立探偵で、のろいもゴーストポケモンも専門ではない
 しかし、行こう
 相手はほっと息をついて電話を切った。晶子はコーヒーを飲み干し、トレンチコートを羽織ると、ボールを三つ取り付けたベルトを持って外に出た。手前からモンスターボール、スーパーボール、ハイパーボールと並んでいる。晶子は目的地の方角を見やった。曇天だった。

 電車でひと駅。地図の上では隣にある町は、晶子には縁遠い、整然とした住宅街だった。ポケモンの姿が見えない、静かな町に晶子は降り立った。
 折り返し電話をかける。後ろで公衆電話が鳴った。携帯電話を切る。同時に公衆電話もピタリと静まった。ノイズから離れた耳に、下校する子どもたちの声が蘇ってきた。
 またらしいよ
 六年一組だって
 のろいなのかな
 こわいなあ
 晶子が振り向いた時には、子どもたちの一団はT字路の向こうへ消えていた。それとも幻だったのか。
「サン」
 赤と白のボールからエーフィを呼び出す。薄紫の猫又を傍らに従えた晶子は、子どもたちがいた方とは逆向きに歩き出す。同じT字路があった。目まいがした。

 売店で雑誌を買う。バイトだという年若い店員に話をふると、彼は嬉々として話してくれた。
「小学校って、すぐそこなんですけど、そこで女子生徒が自殺したって。いじめがあったらしくて。でもそれで終わりじゃなくて、その自殺した女の子が、ゴーストポケモンになって、自分をいじめた奴に仕返ししてるっていうんですよ」
「いじめられっ子がゴーストポケモンになるなんて、都市伝説によくあるけど」
 晶子がそう、気のない風を装うと、若い店員は違うんですよと勢いづいた。
「その証拠に、のろいのノートが残ってるらしいんですよ」
 だから、のろい。
 のろいの蔓延。のろいの根源。電話の向こうの声がリフレインした。
 のろいのノートについて、あるらしいという噂以上のことは分からなかった。お礼程度にコーヒーを買い求め、その場を去った。

 エーフィのサンが眠たげに尻尾を揺らした。その先に公園があった。申し訳程度の緑で囲われている公園の、青く冷たいベンチでコーヒーのプルタブを起こす。苦い液体は、とうに温くなっていた。青いベンチの上に灰色の雑誌を広げた。エーフィは彼女の足元で欠伸する。
 静かな時間が流れた。細い首のようなポールの上に、丸い時計が乗っかっている。長い針が控えめに動く。雑誌にはのろいに関係ありそうな話は載っていなかった。ただ、この前新聞に載っていた少女の自殺が、この町の小学校で起こったということだけ分かった。
 晶子はその記事を新聞で見たはずだ。新聞で読んだ時、何を思っただろう。おそらく、特に何も思わなかったのだろう。そして、どこで起こったかなど、全く気にかけなかった。
 強いて言えば、またか、と思った。
 また自殺か。またいじめか。
 それで、何かが解決するのか。いじめて、自殺して、何が。
 胸に真っ黒の油みたいなものが溜まっていくのを感じながら、晶子は立ち上がった。目まいがする。緑で縁取られた公園を見回して、何故こんな閉塞感を感じているのだろうと思った。ここには自然があり、遊ぶ場所があるはずなのに。
 晶子の不快感を察したかのように、エーフィが公園の入口に先立っていた。揺れる二又の尻尾を追いながら、晶子は公園の出口で違和感に気付く。
 そうだ、子どもの声がしないんだ。
 昔は、晶子が小さい頃は、学校が終われば適当なポケモンを連れ出して、近所の公園で遊んだものだった。今はポケモンの管理が厳しくなって、子どもらも実習の授業以外ではポケモンバトルをやらないのだ、と何かで読んだことがあった。それにしても静かすぎる、と思った。
 まじないのように腰のハイパーボールに触れた。晶子が来るのをエーフィが待っていた。

 猫又の行く先に晶子の目的地があった。雑誌の写真をかざし、下げる。
 自殺した女子生徒の家。
 隣の家も、向かいの家も、いや、ここに来るまでに見たどの家も白くて真四角だったのに、この家だけはくすんで歪んでいた。まるで、家という規格からここだけ落伍したかのように。エーフィが目を細めて、その落伍した家を熱心に見ていた。正確には、二階の家の窓辺りを。晶子もその窓を見た。カーテンが引かれて中が見えないガラス窓以外、何も、なかった。
 インターホンに指を近付け、押した。どこかで誰かを呼ぶ電子音がした。
「はい」
 少しくすんだ扉を開けて、女性が現れた。やつれてはいない、目の下に隈もない、どこにでもいそうな、痩せ型の、肌が疲れた女性。
「警察の方?」
 私立探偵です、と名乗ろうとした矢先、
「警察です」
 後ろから声がした。見知った無精髭の刑事がそこにいた。
「あ、青井さん」
「なんだ、あんたか。……ちょっと、よろしいですか」
 そのまま、なし崩し的に晶子も家に上がることになった。表札には「守屋」とあった。

 畳の間に通された晶子は、青井刑事の隣に座り、守屋という女性と向かい合った。晶子にとって何とも居心地の悪い数秒間が経過してから、青井が口を開いた。
「学校の方から連絡があったかもしれませんが、また」
 そこで口を切り、晶子に目配せした。あんたは何用で来た、と問いかけているのか、それとも、あんたはどこまで調べた、と探りたいのか、警察を辞めて長い晶子にはもう判然としなかった。
 エーフィは晶子にぴたりと寄り添い、気配を探るように耳と尾をピンと立てていた。

「ええ」
 守屋が口を開いた。それは晶子には、唐突に感じられた。
「のろいだと」
 続けて守屋が言った言葉は、晶子の予想通りで、しかし微妙にワンテンポ遅れて伝えられたように晶子には思われた。
 青井が話し始めた。
「六年一組の子です」
 そして、今度は守屋の方を探るように見た。しかし、守屋は反応ひとつ見せなかった。何の感情も見せようとせず、というより、見せる感情さえないのだといった様子で、ただ刑事の言葉を待っていた。
 青井は咳払いをした。
「今度は感電死だそうです。何か、心当たりは」
「ありません」
 守屋は、今度は素早く言った。
「そうですか」
 守屋は立ち上がると、部屋を出ていった。軋む音が上っていく。階段を上ったらしい。晶子と青井はその間、畳の間で待ち続けていた。無為な時間。しかしそう思っても、晶子は今この家で口を開く気になれなかった。隣ではエーフィが耳と尾をピクピクと震わせていた。

 階段を下りる音がして間もなく、守屋が姿を現した。
「これ」
 座るとほぼ同時に、日焼けした畳の上に一冊のノートを乗せた。
「それから」
 何の変哲もないモンスターボールを一個、ノートの隣に置いた。
 青井がモンスターボールを、晶子がノートを手に取った。
「お返しした方がいいかと思って」
 守屋が、晶子も、ノートも見ずに言った。彼女はどこを見ているのだろうと晶子は訝った。
「遺品ですが……こうも事件が続くようなら……返した方が」
 晶子は守屋の訥々とした声を聞きながらノートの表紙を捲った。子どもっぽい、冒険物語の始まりが書いてあった。
「警察でひと通り調べましたが、もし我々が預かった方が望ましいのであれば」
 はきはきとした青井の返事をいいことに、晶子はノートを一旦閉じると、自分の手元まで引き寄せた。エーフィが刹那顔をしかめて表紙を睨む。
「ええ……返した方が」
 守屋は変わらず、宙に視線を彷徨わせたままそう言った。そして、風にでもなびいたように急に顔を動かすと、青井の手元を見て、言った。
「そういえば、いないんです」
「いない?」
 青井がオウム返しに聞く。守屋は再び視線をどこかへやって、
「ええ、いなかったんです、スターが……」
 と消されそうな声で呟いた。

 守屋家を辞去して道に出た。途端、恐ろしく寒い外気に包まれて、晶子は身震いした。
 青井は警察に連絡している。彼が電話を切るのを待って、晶子は話しかけた。
「どうも、お世話かけました」
 要らなかったけどね、と付け足したのは晶子なりの矜持だ。かつての同僚の青井は、そんな晶子の態度には慣れっこで、「なんでいたんだ」と言った。
「依頼があったのよ」
 そして簡単な説明をした。電話で、名乗りもせずに、何だか怪しかったのよと言うと、青井はいつもそれだと呆れて言った。
「それで、のろいはあるのかしら?」
「噂では、あることになってる」
 青井は晶子の手からノートを取り、裏返して見てから、晶子の手に戻した。
「警察で調べた限りでは、ない。そのノートも、というかどのノートにものろいらしいもんはかかってない」
 それまで大人しくしていたエーフィが急に二本足で立ち上がると、ノートに向かってきゅうとひと声鳴いた。何かある、と言いたげに。
「サンが調べたら、何か出てくるかもしれんな」
「警察のエスパーポケモンやゴーストポケモンが調べたんでしょ。なら何も出ないわよ」
 それでも念の為にと、晶子はエーフィの鼻先にノートを近付けた。エーフィはそれでピタリと大人しくなった。
「そっちの捜査状況も聞いていい? 言える範囲でいいけど」
 青井はやれやれと言って自分の頭を掻き、同じ手で嫌がられながらエーフィを撫で、近くの公園で話そう、と言って歩き出した。

 青井が選んだのは、先程晶子がコーヒーを飲んでいた公園のベンチだった。
 晶子はノートをベンチの上に置くと、青井の話を手帳に書き入れた。
「お前、まだそれを栞に使ってるのか」と、晶子が手帳に挟んだ物を見て青井が呆れた顔をした。晶子は意に介さず、メモを取った。

 守屋めぐみ、という女児が学校のトイレで自殺した。
 いじめがあったらしいということで、痛ましいが、しかしありふれたこととして、警察にも処理されたらしい。
「その次の日だ。同じクラスの奴が死んだ」
 殺されたんだ、と青井は痛ましそうに顔を歪めた。
 それから、のろいのノートの噂がまことしやかに囁かれるようになった。
 殺害現場を目撃したと思しきオコリザルの様子が、異様だった所為もあるという。
「で、今日二件目だ」
 やりきれない、と青井がこぼした。それに、スターがいないんなら大事になるぞ、とこれは苦々しげに付け足した。
「一件目は、叩きつけたか、アイアンテールあたりが使われたらしいからな」
「あの、聞きたかったんだけどスターって?」
「それは」
 そのノート見た方が早い、と青井は晶子の隣にあるノートを指差した。
「のろいのノートって言われてるけど、のろいはなかったのよね?」
「だろうな」と青井は曖昧な返事をした。
「ポケモンが使うような、そういうのろいじゃない」とも言った。

 一旦戻るよ、と告げた青井の背中に「待って」と呼びかけた。今、確かめたいことができたのだ。
「青井さん、ここ、静かすぎると思わない?」
 言い終わって、晶子はほっと息をついた。淀んでいた空気が、少し軽くなった気がした。
「ああ、思う」
 青井の返事に、晶子の気分はますます軽くなった。そう感じていたのは自分だけではないのだと知ると、ほっとした。
「最近はガキ相手でもポケモンの管理にうるさいし」
 にも関わらずスターはいなくなっていたが。
「それに、あれだ、受験じゃないか?」
「受験?」
 中学受験だよ、と青井が言った。高校にも行っていない晶子には、隔世の感がした。晶子の時代には、ポケモンと旅をしながら中学レベルの通信講座、が標準だった。行っても職業訓練校。今は、中学受験。
「今頃は、みんな受験で忙しいんだろう」
 小学校一年生まで受験しないだろうから、みんなってことはないと思うけど、という晶子の言葉は流して、今度こそ青井は去って行った。晶子は栞がわりの虹色の鳥の羽を、手帳に押し込んだ。パン、と音を立てて手帳を閉じると、エーフィを呼んで公園を出た。

 相変わらず、町にポケモンの影はない。人は時折すれ違うが、それでもたくさんいるという印象はない。
 みんな、あの箱の中にいるのだろうか。
 白い住宅の列から目を離して、晶子はエーフィの後を追った。エーフィは青井が去ってから、気忙しげにノートを鼻先でつついては、あっちへ行きこっちへ行き、そしてまた晶子の所へ戻り、を繰り返していた。
 もしかして、気になる匂いがあったのだろうか。晶子は腰のスーパーボールを外すと、中にいるポケモンに呼びかけて、誰もいない道の真ん中に開け放った。
「ヘル、このノートの匂いを追ってくれない?」
 地獄の番犬とも称される細身の黒犬は、ノートに鼻を近付け、エーフィと何か言葉を交わすと、自信ありげな様子で晶子たちの先導にかかった。エーフィの方は荷を下ろしたように表情を緩ませていた。
 エーフィにボールに戻るか、と尋ね、断られた晶子はそのままヘルガーの先導に従った。時折、小脇に挟んだノートを気にしながら。のろいのノートと呼ばれたこれには、何が書かれているのだろう。

 ヘルガーが低い声で鳴いた。
 小学校。
 背の低い校門はピタリと閉じられていた。緑色の鉄格子のような校門の向こうには、広く寒そうなグラウンドがあった。誰もいない。事件があったから生徒を帰してしまったのだろう。晶子が校門の番をしている警備員に話しかけ、その警備員が晶子を入れる許可を取りにどこかへ行ってしまっている間、晶子はノートを読んでいた。
 のろいのノート。
 しかし、表紙にはのろいとは書かれていない。そこいらで売っている大学ノートの表紙には、名前が書いてあるだけだ。
 守屋愛。
 マジックで書かれた名前に黙祷を捧げ、晶子はノートを開く。晶子が昔考えたような、拙い夢物語がそこにあった。

 ポケモンだけしかいない大陸
 そこに、スターというピカチュウがいました
「やあ、スター」
 今日は友達のルリリとウパーと、待ち合わせをしていました
「あずるとサラマン! 遅いよ!」
 スターは二人に怒りました
 ルリリはあずる、ウパーはサラマンといいます
「ごめんごめん、さあ行こうよ」
 二人が謝ったので、スターは許しました
 三人で、今日は森に行く予定です
 不思議の森で、大人には行くのを禁止されていました
 ……

「入っていいですよ」
 警備員の声で、現実に引き戻された。いつの間にか、校門が開いていた。
 ありがとうございます、と礼を述べて小学校の中に踏み入った。ヘルガーは障害が無くなって清々した、と言わんばかりの様子で先々進み、エーフィはエーフィで、自分の仕事は終わったとでも言いたげに晶子の後ろからノロノロ付いて来ていた。

 小学校の入り口は開いていた。校門は閉まっていたが、校舎は開いているものらしい。しかし、ヘルガーはその入り口には見向きもせず、校舎の裏手に回った。
 開けたグラウンドとは反対に、校舎の裏側は雑木林になっていた。緑がこんな形で残っているのに驚きながら、晶子はヘルガーの後を追う。晶子には木々の名前は分からないが、ここで子どもたちが遊んだりするのだろうか、と思いながら。
 ヘルガーがある木の根元に鼻先を付けると、そこにお座りをした。右前足をひょい、と上げ、何かを促すように晶子を見る。
「自分で掘って」
 晶子がそう言うと、ヘルガーは渋々、木の周囲の土を掘り返し始めた。エーフィも晶子たちに追い付いたが、ヘルガーを手伝う気はさらさらないらしく、晶子の横に伏せた。当て付けのように鈍い動作を見て見ぬふりして、晶子は手元のノートに目を通した。

 ノートの続きには、ピカチュウのスターと他二匹の冒険物が書いてあった。スター、というのは守屋愛の手持ちだったのだろう。そのピカチュウが活躍する物語を、彼女は書いていたのだ。晶子の予想通り、強そうな敵が出てきて、あっという間に倒し、宝物を手に入れる。同じような展開が続いていた。
 これのどこがのろいのノートなのだろうか。のろい以前に、まず日本語をどうにかした方がいいレベルだ、と晶子は思った。青井が受験と言っていたのをふと思い出した。守屋愛の学力はどうだったのだろう。ノートを捲っていく。おや、と思った。
 字が綺麗になっている。

 ……
 帰ってくると、スターの部屋が荒らされていました
 今までに手に入れた宝物がありません
 スターは二匹の所へ行きました
 広場に着きました
 二匹はスターを見ると、クスクス笑いました
「今まで宝物を手に入れるために騙してたんだよ。スターのばーか」
 二匹の後ろに宝物がありました
 スターは十万ボルトであずるを倒し、アイアンテールでサラマンを倒しました
 スターは裏切り者を倒しました

 何これ、と晶子の口から声が漏れた。晶子が頁を捲ろうとする、それを止めるようにヘルガーが鳴いた。そして、ヘルガーの制止よりも大きく、
「何ですか、あなたは」
 女性の叫び声が雑木林に響き渡った。
 晶子は反射的に立ち上がった。
 サンドパンを傍らに控えさせた若い女性が、恐怖と怒りに満ちた眼差しで晶子のノートを見、ヘルガーが掘り返していた足元を見た。ヘルガーがビクリと身を引いた。
「それは」
 女性の口から三音が漏れ、凍りついたように閉ざされる。
 晶子は黙って携帯電話を取り出し、青井の番号にかけた。ひと言「小学校の裏」とだけ告げて、電話を切る。同時に、体を支える腱も切れたかのように、女性がくずおれた。
「違うんです、襲われると思って。あっちが、あっちが先に襲ってきたんです」
 晶子は土に抱かれて眠る、黄色い電気鼠を見て、すぐ目を離した。心の中で祈る。サンドパンを連れた女性は、まだ喚いていた。
「私が悪いんじゃない、正当防衛だもの。私は悪くない、私は悪くない」
 サンドパンは自分のトレーナーの様子に慄いたのか、それとも別のものに怯えたのか、背中の棘を剥き出して丸くなって、ぎゃんぎゃんと鳴き始めた。ヘルガーが怒ったように吠え始めた。
 その光景を、エーフィだけははじめから知っていたように、静かに眺めていた。

 警察が到着しても、女性はまだ自分は悪くないと呟いていた。
「あれこそ、のろいじゃないか」
 彼女を乗せて出発した警察車両の背を見送って、青井がぼやいた。彼女は守屋愛のクラスの担任だったらしい。いじめがあったとしたら、教師も後が大変だっただろうと青井はついでのように呟いた。
 晶子はというと、のろいのノートを胸にしっかりと抱き締めて、彼女が言ったことを頭の中で反芻していた。

 私は悪くない
 あの日、私は花瓶を置こうとして
 あの子の机に
 そしたら、あのピカチュウと
 ノートが
 のろいのノートが

「調べてもらわなきゃ分からないが、十中八九スターだよなあ」
 捜査のやり直しだ、と言ったが、青井はさして残念そうではなかった。
「他に目星があるの」
「それは言えない」
 それより、と青井は言った。
「あんたはのろいを調べなきゃならないんだろう」
「それなんだけど」
 ちょっと情報都合してよ、と晶子は言った。

 守屋愛は中学受験に落ちていた。
 その場合は、必然的に学区内の中学校に通うことになる。小学校の全員が受験するわけではないから、いじめっ子たちもほぼ繰り上がりで同じ中学にやって来る。
 嫌、だったのだろうか。
 気持ちいいはずは、ない。学区から遠く離れた中学校で、心機一転、互いが初対面のメンツで始めるのと、小学校の続きのような場所で、いじめっ子たちと再び一緒にいるというのと、どちらが良いか。でも、それでも、死ななければならないなんて。
 そこまで思い詰める児童の気持ちを推し量るには、晶子は歳を取りすぎている気がした。中学受験も、実習でしかやらないポケモンバトルも、綺麗すぎるほど整えられた町並みも、晶子には既に別世界のことのように感じられるのに。

 晶子は三度公園に戻っていた。緑の箱庭で、守屋愛のノートを広げる。晶子を気遣うように、公園に明かりが灯り始めた。空を見上げて、雲が夕焼けに染まっていることに、晶子は気付く。
 ヘルガーは疲れたらしい、地べたに転がっていた。エーフィは薄紫の瞳で、黙って晶子とノートを見ている。
 晶子はエーフィにも見えるようにノートを傾け、続きを読み始めた。
 ノートは真っ黒になっていた。

 なんで私がキモいとか死ねとか影口ばっかり
 あいつらが死ねばいい死ねって言ってるあいつらが死ねばいい
 佐野優子と松下陽菜と太田恵梨香と橋本直美と八木満 全員死ね
 私が死んだら全員

 晶子はいたたまれなくなってノートから目を離した。エーフィはまだ、ノートを見つめていた。
 箱庭の空気を吸い、再びノートに目をやる。読もう、としても全ては読めなかった。ただ、どこを読んでも「死」というワードが視界に入り込んできた。それは、いじめっ子が死ぬことであったり、守屋愛が死ぬことであったり、途中からは、いじめを訴えても助けてくれない担任の教師が死ぬことであったり、した。死は、こんなに軽かったか。
 ただ、と晶子は思う。このノートに名指しで書かれた誰も、死んでいない。殺された子どもたちの名前とは、どれも一致していなかった。
 スターだけが死んだ。
 晶子は頁を捲っていく。子どもががなり立てるような死の文字の羅列は身を潜めて、日記のような文章が現れた。比較的、落ち着いた文体で、遅いけれど中学受験をすることに決めたこと、受かるか分からないけれどやるだけやってみよう、と前向きな文章が綴られていた。
 実習であずると当たるのが苦痛。前は仲良かったのに。
 頑張ろう、と前向きな文章の中に、それだけ浮いて見えた。晶子はさらに先に進む。

 前向きな日記が突如として途絶えた。一頁丸々空きがあって、次の見開きに、整然と文字が並べてある。
 遺書、と題されていた。

 私、守屋愛は今日死にます
 私をいじめた人を絶対に許しません
 私をいじめた人は、幸せにならないでください
 充実した学校生活なんか送らないで、いい就職なんかしないで、幸せな結婚なんかしないで暮らしてください
 私がなんで死んだか、永遠に考え続けて生きてください

 これがのろいか、と晶子は思った。
 小学生にしては恐ろしく整然と、遺書は綴られていた。口座に預金してある分はお母さんにあげます。それから、学習机の三段目のピンクの箱に、今まで貰ったお年玉が入ってます。そんなことも書かれていた。
 晶子は次の頁に目をやる。
 エーフィがひと声鳴いた。

「あ……」
 いつの間にか晶子の目の前に立っていた女性が、一礼した。晶子も慌てて座ったまま礼をする。
「犯人、捕まったみたいですよ」
 その女性は――守屋の母は、疲れた肌に似合うくたびれた笑みを浮かべた。
「夕方のニュースでやってました。めぐみのクラスの子、どちらも親が犯人だったと」
 間に合ったのか、と思った。青井の顔を思い浮かべた。多分、最初からスターは犯人だとは思われていなかったのだろう。ちゃんと確かな線を追っていたのだ。
「最初の……めぐみの次に死んだ子なんか、親のポケモンに殺されたんですって。酷い話ね」
 殺害現場を目撃したらしい、オコリザルの様子がおかしかった。そう青井は言っていた。そして、オコリザルはアイアンテールを使える。分かれば容易いことだ。
 どうしてそんなことができるのかしら、自分の子どもに。
 そう言う守屋の母は、けれど答えを知っているように、晶子には思われた。
 どれも同じに造られた家の群れの中で、唯一はみ出した家に住む人。
「その次は保険金目当てで。のろいの噂に乗じてやればばれないと思った、って」
 守屋は話しながら、しっかりと息を吐き出した。そして、晶子が持つノートに目を落とした。
「それ……」
「お返しします」
 晶子は立ち上がって、守屋の手にノートを渡そうとした。皺が深く刻まれた母親の手だと感じた。
「あなたの、娘さんの物ですし」
「いえ」
 守屋の母は、強い力でノートを晶子の手に戻した。その目には、はっきりと人間らしい意志が感じられた。
「燃やしてください。あなたが連れているヘルガーさんに、燃やすよう頼んでくれませんか。きっとこれは、燃やした方がいいと思うんです。このノートは」
 急に名指しされたヘルガーが、驚いて体を起こした。晶子はヘルガーをボールに戻すと、守屋に言った。
「いえ、もっといいポケモンがいます」

 守屋はスターのボールも持って来た。
 少し歪んだ家の小さな庭に、晶子と守屋はいた。
「燃やして、いいんですね?」
 晶子の問いに、守屋はしっかりと頷いた。晶子はそれを確認して、ベルトにセットされたハイパーボールを開く。
「ホウ」
 ボールの開閉に伴う光だけではない、生き物の温度を持った光が、夜にばら撒かれた。歌うような鳴き声が、空を震わせる。
「燃やして」
 僅かな言葉で意志は通じた。

 ボールから夜の世界に舞い上がった虹色の鳥は、小さな家には大きすぎる翼を広げた。それだけで、ノート自体が意志を持つかのように、火を放ち始めた。金色の炎。
 紙がその形を無くしていく。ノートに染み込んだ黒鉛が、束の間の安寧に身を委ねるように、炎の中に消えていく。
「スターは、何故死んだんでしょう」
 ポツリと呟くように守屋は言った。炎に照らされた顔に、晶子は疲れきった母の顔を見た。
 担任の教師に殺されたのだと言うのは容易く、しかし、伝えるのは晶子には難しかった。

 あの日、守屋愛がいなくなった日。
 スターはノートを取りに学校に行ったのではないだろうか。
 あのノートは、最初はスターの為に書かれたものだったから。スターのノートだったから。
 多分、守屋愛はいつもノートを学校に持って行っていた。そして、持って帰っていた。けれど、あの日は守屋愛は帰って来なかった。当然、ノートも帰って来ない。
 スターは自分のノートを取りに行こうと学校を訪れた。そして、花を供えようとした教師と行きあった。教師が見たのは、真っ黒なのろいの言葉で埋め尽くされたノートと、それを持つピカチュウ。

 晶子は自分の考えを払うように頭を振った。
 守屋は、虹色の鳥を振り仰いだ。そして「綺麗ね」と呟いた。
 ノートが燃えていく。

 お母さんとスターへ
 先に死ぬけど、ごめんなさい
 お母さんとスターは、幸せに生きてください

 遺書の最後の文字列も、金色の炎の中に消えていった。スターのボールが、パチリと爆ぜて割れた。エーフィが、不意に守屋の家を振り仰ぎ、そして、藍の目をゆっくり閉じた。まるで、自分の見る役目が終わった、とでも言うように。

「教えてもらえませんか」
 守屋が、炎の向こう、夜闇と光の境界から晶子を見据えて言った。
「あなたは、“誰に”頼まれて調べごとをしていたんですか?」
 晶子は、電話の声を思い出した。のろいの蔓延。のろいの根源。
 のろいに蝕まれたこの町を厭い、悲しみ、自分ものろいの餌食になった人物。

 晶子は空を見上げた。のろいの根源は、どこにあるのだろう。
 答えのない空から、雨が落ちてきた。
ページ上部へ▲
inserted by FC2 system