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飛行訓練
 五月十四日。

 ライモンシティの中心部から外れた閑静な住宅街、その上空を、遠目にも色鮮やかな鳥が翼を打ち振るって飛んでいた。鳥の背中には人影。おそらく、自身のトレーナーを乗せて飛んで

 バランスを崩した。

 トレーナーが体勢を立て直すよう指示するが、空中で左に傾いてしまった体は元の姿勢に戻る術を知らず、更に大きく傾き、首を下に向け、きりもみ回転を始めた。そうなると、手の打ちようがない。一組のトレーナーとポケモンはそのまま重力に従って、住宅街の固い地面にぶつかるものと思われた。しかし、ひとりと一匹の体は、空と地面の途中で透明な網に受け止められた。網はひとりと一匹分の運動量を受け取り、網が伸び切る限界、地面すれすれの、高さニアリーイコールゼロの地点まで伸びると、伸びた分を弾性力に変えて、今度は上昇を始めた。
 上昇し、最高点に着くと、今度は下降を始める。暫くそれを繰り返して、網の動きが微小な振動へと収束した時、空から落ちてきたポケモンとそのトレーナーは地面に降り立った。

 トレーナーの方は黒いコートを着た女性で、真っ黒な髪の中に一房、紅色に染めた髪をいじっている。続いて降り立った、青黄の原色の羽に飾られた爬虫類と鳥の狭間のような姿をしたポケモンが、気難しそうに髪を触る女性を見上げて、謝るように鳴いた。
「中々上手くはいかないもんだな、ロー」
 落下のショックを吐き出すように、女性は胸に手を当て、長い息をついた。そしてすぐ笑顔になると、
「今日は随分長く飛べたな。どんどん上達してるよ」
 そう言って、原色のポケモンの、鱗に覆われた長い首を撫でた。ポケモンは嬉しそうな、けれどやはり申し訳なさそうな眼差しで女性を見た。
 女性の目の中には、隠し切れない、空への希求が輝いていた。



 五月十五日。

「……どうしたんですか、その怪我」
「落ちた」
「ええっ!?」
 職場に出勤した女性は、後輩兼部下の質問に、必要最小限の言葉で答えつつ、自分のデスクについた。
 額と右頬には大きめの白い布が当てられている。色白で、他者から常々「美人だ」と評される顔に傷が付いているらしい。
 彼女はそんなことを爪の先ほども気にせず、左手の指先で左頬を掻く。そちらの手は無傷だが、右手の方は指の付け根まで包帯に覆われている。服の下もきっと傷だらけに違いない。
「どこから落ちたんですか」
 と呆れた調子で部下が質問した。
「ロー……アーケオスの背中からだ」
「また落ちたんですか」
 いつものように淡々と、静かな声で答えた上司に、部下はやるせないという風にため息をついた。またですかと言うべきか、気を付けてくださいよと言うべきか、そもそもアーケオスに乗るのが危ないと言うべきか、部下が迷っていると、彼女の方が先に口を開いた。
「安全対策はばっちりだったんだが、肝心の網が切れた」
 ばっちりじゃないですよね、と部下が嫌味を込めて言うが、彼女はどこ吹く風といった様子で、部下の言葉を丸ごと流した。
 彼女は肩の上に左手を伸ばすと、そこからポケモンを取り出してきて机の上に置く。肩乗りサイズの、小さなポケモンの代名詞であるバチュルが、酷く疲れた様子で彼女を見上げていた。
 通常、ポケモンの飛行訓練をする時は、テレキネシス――体を浮かせる技――を使えるポケモンを用意するか、下に安全ネットを張っておく。そのネットには丈夫で弾力性に富む虫ポケモンの糸を使うことが多いのだが。
 机の上に置かれたバチュルは、心なしか痩せ細って見える。
「酷使するからですよ」
「かもな」
 本当にそう思っているのかどうか、推し量り辛い調子で部下の言葉に答える上司。その彼女はデスク上に置かれたパソコンをいじっていたが、急にマウスを投げると、部下に顔を向けた。
 顔を輝かせ、いつになくはしゃいだ様子で上司は言った。
「そうだ! ノクティスも空を飛べるだろう? ちょっと訓練に付き合ってくれ、キラン!」
「ええ!? なんでですか、それより仕事してくださいよ!」
「ローが飛べるようになったら、いくらでもやるからさ」
 彼女は有無を言わさず、一度は脱いだコートを手に取ると、バチュルを手に持って、部屋から職場に隣接した青空道場へと駆けて行く。その速いことといったら、特性のはやあしが発動したグラエナのようだ。
「もう、レンリさんは全くもう……」
 部屋に残されたキランも、仕方なく自分の上着とモンスターボールを持って、道場へ向かった。

 アーケオス、さいこどりポケモン。
 大昔に生きていたとされる始祖鳥のポケモンで、地を駆ける恐竜から、いざ飛び立たんとする鳥へ進化する、その途中の行程を保存したような姿をしている。前脚の翼は鳥のそれだが、現代に生きる鳥や鳥ポケモンの姿とは異なって、大胸筋は未発達であり、代わりに地を駆ける恐竜の名残である後脚が発達している。太い腕の筋肉で翼を動かしていたと考えられるが、原生の鳥たちと比べればその羽ばたきは力強いとは言えない。羽ばたきで積極的に上昇することはせず、後脚が生み出す優れた初速を利用して飛んでいるのだろう。翼の力が弱く、旋回や速度調整は不得手なので、低く直線的に飛ぶのが彼らアーケオスである。

 にも関わらず。ライモンシティにある警察署の上空を高々と、アーケオスがひとりの女性を乗せて飛んでいる。
 大型の鳥ポケモンのように、翼を広げ風を受けるような真似はしない。墜落を恐れているかのように、必死に羽をばたつかせている。ポッチャマ一族の泳ぎを“飛ぶように”と比喩するならば、さしずめあちらは“溺れるように飛ぶ”といった感じか。
 道場の地面からアーケオスと女性を見上げる山吹色の髪の青年は、ハラハラしながら、青い顔で彼女に呼びかけている。
「だーかーらぁー! 危ないですってレンリさん! 頼むからもうちょっと低い場所を飛んでください!」
 そう叫ぶ部下の近くで、同じく青い顔で、ハート型の鼻の蝙蝠が心配気に空を見上げている。ココロモリは元から青い顔だが、その顔がさらに青くなっている。
 レンリはそんな地上の部下の様子など毛ほども気にせず、空を飛んで楽しそうに笑っている。
「大丈夫だよ、キラン。ほら、こっから遊園地が見える」
「高く飛び過ぎですよ!」
 ライモンシティの中心部を隔てて、警察署と遊園地は東西の端の方にある。それが見えるとは何事か。
 早く降りてください、と震える声で言うキランに上空から笑いかけ、レンリはアーケオスに「そろそろ降りよう」と伝えた。
 色鮮やかな原色の始祖鳥は翼を更に激しくばたつかせ、道場の敷地の端をなぞるように旋回する。そして、旋回で傾いた姿勢を地面と平行な位置に戻せないまま更に傾いて、向きも方向も無茶苦茶になりながらアーケオスの体は地面に向かった。
「レンリさ……ノ、ノクティス!」
 キランは傍らのココロモリに呼びかけた。
 ココロモリは頷くと、滞空位置からアーケオスと地面を結ぶ線分上へと鼻先を向ける。
「テレキネシス!」
 ココロモリの鼻から出た桃色の念波が、アーケオスとその背に掴まる女性に当たった。彼女たちに働く重力だけが消え失せたかのように、ひとりと一匹の落下速度が弱まった。そのまま下向きの速度は落ちていき、彼女とアーケオスの体は人間が走るぐらいの速度で地面にぶつかった。
 始祖鳥はすぐに立ち上がったが、レンリの方は暫く地面に突っ伏していた。
「……レンリさん?」
 青年は恐る恐る、地面に倒れたままの上司に近付いた。アーケオスが翼のある前足でレンリに触れた。
 と同時にレンリは起き上がると、額のガーゼに手を当てた。それを力任せに剥がす。傷口が開いていた。
「まあ、また練習だな」
 レンリが無事でほっとしたのか、アーケオスが嬉しそうに鳴いた。


 五月十八日、雨。

 上司は寂しそうに外を見ながら、時折パソコンをいじっていた。部下の青年は、ほっとした様子でそれを眺めている。
 昨日、一昨日とレンリの無茶な飛行訓練に付き合わされ、ココロモリの青い顔は更に青くなり、キランの寿命は十年分ほど縮んだ。
 テレキネシスやバチュルの糸の安全装置があるので、墜落してもポケモンの方は大事に至らない。しかし、乗っている人間は生傷が絶えない。
 レンリは肩に乗せたバチュルにポケモン用の駄菓子を与えながら、左手でマウスをカチカチ鳴らしていた。パソコンのモニタにはイッシュ地方の地図と天気図が映し出されている。
 キランは上司が座っている椅子の後ろまで行くと、
「仕事してくださいよ」
 と声をかけた。彼女は残念そうに地図と天気図を閉じて、文書編集プログラムを起動した。
 高性能低速度のプログラムが起動するまでの時間、レンリは髪の紅く染めた部分をいじっていた。右手の包帯は取れたが、左手に包帯が巻かれている。
 アーケオスの体力が減って弱気になるまで止めないので、付き合わされるキランとココロモリは散々だった。そもそも、羽ばたきと念力で空を飛ぶココロモリに、飛び方の全く違うアーケオスの指導なんて出来ないのだ。長時間の訓練で集中力は落ちて、テレキネシスの発動タイミングは遅れ、正確性は落ちる。しかし、ココロモリのノクティスが何度も彼女たちを受け止め損ねて怪我をしても、彼女は自分が納得するまで訓練を止めない。
 何故そこまで執着するのか。
「レンリさん」
「なんだ?」
 やっと開いた文書ファイルから目を離して、レンリが後ろを向いた。
 キランは手近な空席に座って、肩のバチュルがこちらを睨んでいるのを気にしながら、レンリに話し始めた。
「どうしてそこまで、空を飛ぶことに執着するんですか? 町へ移動するだけなら真っ直ぐ飛べば十分だし、大体、アーケオスは空を飛ぶのが苦手なんだから、別のポケモンを育てるっていう手も……」
「それは駄目だ。ローが飛ぶのが苦手だからって、鞍替えするような真似は出来ない。何匹も面倒見る程器用じゃないし」
「でも」
 でも、危ないですよ、と言おうとして、止めた。キランが言ったところで、レンリが止める筈がない。頑固で、思い込んだらまず聞かない。彼女はそういう人物だ。
「空を飛べば、速く移動できる」
 レンリが呟いた。苦しそうに目を伏せて。
 息が詰まるような数秒だった。雨粒が窓をひっきりなしに叩く音や、雨樋に集まって勢い良く流れ落ちる音が無ければ、本当に呼吸が止まってしまうかもしれないとキランは思った。
 長い話になるならお茶を入れようかな、と思った。間を持たせる自信がなかったのだ。しかし、キランが動くよりも先に、レンリが話し出した。
 彼女は手を組んだ。
「私が警察になったきっかけは、話したっけな」
 キランは不器用に頷いた。正確に言えば、レンリが話したわけではない。何となく、噂になっているのを聞いてしまったのだ。
 彼女のパートナーのゾロアーク、その母親がポケモンの密売組織に誘拐されてしまった。レンリはゾロアークの母親を探すために、警察になったらしい。
「あの時」
 レンリは寂しそうにため息をつく。
「母さんが誘拐された時、追いつくことが出来ていたら、ってさ」
 誘拐された当初、当然警察が動き、犯人を追跡した。しかし、突如として怒った大嵐とそれによる土砂災害で、道は閉ざされ、犯人には逃げられてしまった……らしい。
 犯人の逃走を許し、パートナーと母親を引き離してしまった彼女の胸中は、言葉少なに漏らす断片しか分からない。まだ義務教育中で、トレーナーにもなっていなかった彼女に、何が出来るはずもなかったのに。
「それに、高い所から探せば、きっと見つかる。そう思うんだ。子供っぽいな」
 レンリは自嘲気味に笑うとくるりとパソコンの方を向いて、文書の編纂作業を始めた。左手が時々髪を触っていた。
 まだ、レンリは全てを話していない気がした。けれど、キランにそれを聞き出すことは出来なかった。

 外ではまだ雨が降っている。今日は一日、降り続くらしかった。
「あ、そうだ、キラン」
 パソコンから目を離さずに彼女が言った。
「次の二十四日が誕生日だったな。何か渡すよ。訓練にも付き合ってもらったし」
 別にいいですよ、と答えて、キランも仕事に戻った。


 五月二十一日。

 レンリは警察署には来ていない。アーケオスの飛行訓練が一段落し、後脚の羽と長い尾を利用しての安定した旋回が出来るようになったところで、彼女は数日間の休みをとった。どうやら、フキヨセの辺りに行ったらしい。フキヨセには良い風が吹いていて、飛行ポケモンの訓練にはうってつけだと聞く。大方、アーケオスのアクロバットの練習でもしているのだろう。
 何はともあれ、これでキランも羽を伸ばせると思いきや、彼女はやるべき仕事をメールと電話とファックスでキランに指示してきた。
「あと、お前、シビシラスを連れてたな」
 仕事内容を伝える電話の最後で、彼女は急にそんなことを聞いてきた。
「はい、ルーメンですよ」
「そうだな。分かった」
「あの、レンリさん」
 何が分かったなのか。疑問に思ったが口には出さず、キランはもっと聞きたかった別のことを聞く。
「レンリさんって誕生日いつですか?」
「誕生日? 親がいないからな。知らない」
「すいません」
「いいよ。記憶にも残ってないんだから」
 レンリは明るくそう言って、電話を切った。受話器の向こうで風鳴りの音がしていた。
 せめて直に会って聞けば良かった。キランは後悔した。


 五月二十三日。

 レンリはまだフキヨセの方にいる。キランが仕方なく今日も慣れないパソコンに向き合っていると、机に置いていた携帯電話が鳴った。
「はい、カシワギです」
 反射的に電話に出て、ついでに離席して窓の側へ行き、ブラインドを開けた。外は晴れている。
「はい、職場の上司ですけど。え? はい、すぐ行きます」
 電話の向こうの人の言葉を聞き終えたキランは、すぐさま上着とモンスターボールを手に取り、外へと走り出した。

 フキヨセシティに着くと、キランはここまで飛んできたココロモリにお礼を言ってボールに戻した。
 柔らかい、春の雨が降っていた。キランは濡れるのも構わず、目的の白い建物を見つけると、農道を蹴って一直線にそこへ走っていった。
 フキヨセ総合病院。
 キランは開け放たれた扉を躊躇なく潜ると、曲がったパイプで作られた四つの簡易ベッドの内、一番奥に寝かされた女性へと近付いた。点滴のパックを取り替えていた看護師の女性が、キランの姿を見ると一礼して、慌てた様子で部屋を出て行った。それから一分も経たない内に、別の看護師がやって来た。さっきの人よりも少し年配に見えた。
「カシワギキランです」
 キランは看護師が来るまでの間、レンリが眠っているベッドの横にしゃがみこんでいたが、看護師が来ると立ち上がって頭を下げた。
「手持ちのポケモンに乗っていて転落したそうです」
 開口一番、レンリの状態の説明を始めた看護師に、一寸どきりとしながら、キランは一言一句も漏らすまいと必死に耳を傾けていた。
「幸い、手と膝の擦り傷だけで済みましたが、軽い栄養失調も起こしていて」
 看護師は点滴のパックを確かめるように手に取って見た。とりあえずは、身体に大事がないことにホッとする。
「それから、ずっとあんな調子なんです」
 キランは眠っているレンリを見た。

 まるでお伽話の眠り姫のようだ、とキランは思った。
 色白で、綺麗で。切れ長の目は今は閉じられているが、それでもその双眸の美しさは隠せない。黒い髪は枕に向けてさらさらと流れている。長く伸ばせばもっと綺麗になるだろう。メッシュを入れない方が綺麗なのに、勿体無いと思う。
 点滴の針が刺さった左腕は細く長く、その先にある手の指もほっそりとしている。薄い掛け布団に大方覆われている痩身は力強いのに、儚げだ。
 控えめに形作られた唇から、苦しそうな悲鳴を漏らしていなければ、彼女が生きている人間だなんて忘れてしまうかもしれない。レンリはうなされていた。

 看護師はキランに彼女の家族の連絡先を聞き、キランが首を横に振ると、残念そうに出て行った。
 なんだよ、とキランは思った。レンリのことを大切に思っているのに、自分では駄目なのか。ただの異性の部下ではなくて、せめて恋人の位置まで上らないと、好きな人を見舞うことも出来ないのか。
 キランは点滴の管に気を付けながら、レンリの左手を握った。こんなの、ずるいけど、と思いながら。
「母さん……」
 レンリの口から、求めて止まない幼子のような声が漏れた。苦しそうに、震える声で。まるで雨の中に置いていかれたみたいに。
「母さん……母さん……」
 それしか言葉を知らないみたいに、そればかり繰り返す。記憶にないはずの母親を探しているのだろうか。怪我自体は軽くても、アーケオスから落ちて少しの間は雨に降られていたに違いない。凍えた体が記憶を引き戻したのだろうか。
 レンリの左手が、キランの右手を強く掴んだ。
 はっとする。
 いつの間にか目を開き、紅色の濁った瞳が見えていた。
 レンリさん、と呼びかけようとした。

 握っていた筈の右手が乱暴に振り払われた。点滴の針が外れて、振り子みたいにこっちからあっちへ放物線を描いた。
 レンリはキランに背を向けて、体を叩きつけるようにベッドに横になると、簡易ベッドの薄いシーツをきつく固く握り締めた。
「かあ、さ、……」
 言葉はどんどん切れ切れの切れっ端になり、それでも母親を求める声だと察しが付いてしまった。
 声を邪魔するのは、レンリ自身の喉に吹き込む呼吸だった。空気を遮断されたかのように息を呑むのが、かえって苦しみを増すのだが彼女の意志ではそれを止められない。暫くそれを馬鹿みたいに棒立ちになって眺めていて、視覚的に認識するというより、キランはただそれを網膜に映していた。
 やっとのことでナースコールの存在を思い出して、キランはベッドの頭側に取り付けられたボタンに手を伸ばした。その手を色白の指が掴んでいた。
「平気だ」
 まるで亡霊のように虚ろな目。でも半分だけ現実に戻って来ていた。
 レンリが瞬きして、掴んでいた手を離す。
「すまないな。大丈夫だ。ちょっと夢見が悪かっただけだから」
 首を横に傾げて笑うレンリの仕草に、思いも掛けずキランは胸を突かれた。レンリはそんなキランの様子には気付かず、ベッドから立ち上がった。ベッド横のパイプ椅子に置かれたコートを手に取って、
「帰るぞ」
 とキランに声を掛けた。もうすっかりいつものレンリだった。

 彼女のアーケオスはレンリを背中に乗せると、後脚でフキヨセの滑走路を蹴って速度を上げ、ある瞬間、翼の向きと地を蹴る角度を変え、勢い良く空へと飛び出した。
 相変わらず羽ばたきは激しく、溺れているようにしか見えないが、フキヨセからライモンへの航路を取る時は翼を真っ直ぐ広げ、後脚の羽を立て、尾を円運動の外側に振って体勢を整えた。そのまま大きめの円を描いて旋回すると、再び羽ばたきを始めてライモンへ向かう。空の上で、レンリの顔が綻んでいた。


 五月二十四日。

 あの後、ライモンシティには戻ったものの、レンリは職場に顔を出していない。
 アーケオスの飛行は上手かった。きっと昨日は、フキヨセの風に驚いて離陸に失敗してしまったのだろう。そこに栄養失調で貧血気味だったのが重なって、気を失ってしまったのだ。
「それだけなら、良かったんだけど」
 キランは終わらない文書の打ち込みを諦め、パソコンに背を向けて、背もたれに顎を乗せていた。
 もう日は暮れてしまっている。夜の中で、部屋の明かりだけが煌々とキランの周辺を明るく照らしていた。大きめの窓に、姿勢を崩したキランと、その影に隠れてココロモリが映っている。

 レンリは母親と、どういう別れ方をしたのだろうか。その上ゾロアークの母親まで奪われてパートナーにも寂しい思いをさせ、贖罪の思いを抱いたのかもしれない。そして、彼女の空への希求は、そのまま母親を探すことに繋がるのだ。
「だからって、あんな無茶な訓練に付き合わされちゃ、こっちはたまんないよ」
 キランは回転椅子を回しながら、空いた椅子に乗って丸くなっているココロモリに同意を求めた。その時、机の上の携帯電話が鳴った。
 メールを確認し終えると、キランは上着を取り上げた。
「行こうか、ノクティス」
 椅子の上の青蝙蝠は、嬉しそうに鳴いてキランを先導した。

 ライモンシティは広い。キランは町の西にある警察署から、横方向にライモンシティを突っ切って飛んで来た。
 町の東、存在を主張するかのようにチカチカ光るゲートの手前でココロモリをボールに戻そうとすると、ココロモリが鼻先をキランに押し付けてきた。まるで、頑張れとでも言うように。
「ありがと、ノクティス」
 首筋を撫でてやってから、鼻がハート型の蝙蝠をボールに戻すと、キランはゲートを潜った。
 途端に、辺りは異世界に迷い込んだかのように一変し、騒々しく、光り輝く世界へと変貌する。売り子たちがかしましく叫ぶポップコーンやアイスクリームの売り文句の間を通り抜けて、キランはある場所へと向かう。それは、規則正しい動きでもって、人間たちを空高くまで運ぶ乗り物だった。
 その付近にいたレンリに、手を上げて自分の位置を知らせた。
「呼びつけてしまったな」
「いいですよ、別に」
 どうせ仕事しないですし、と言ったキランの腕を、レンリが引っ張った。そのまま目的の建造物、観覧車へ向かって行く。
「一度、乗ってみたかったんだ」
 そんなことを言うと、普通の女の子に見えた。
「ゾロアークに化けさせれば良かったじゃないですか」
 キランがそう言うと、レンリは口を尖らせてこう言った。
「それじゃ、つまらないし、有難味が薄れると言うか。兎に角つまらないだろ」
 円形の枠組みの最下点に来た丸いゴンドラに乗り込む。作り付けの低い椅子に、レンリが長い脚を邪魔そうに折り曲げて座った。キランはその向かいに座った。そういう作りだから、仕方がないのだけれど。
 真正面から目が合うと、レンリは照れ臭そうに笑った。
「これ、誕生日プレゼント」
 そう言ってレンリが両手に余るぐらいの大きさの箱を差し出したのは、ゴンドラが四十五度ほど上がった時、全行程の四分の一が終わったところだった。
 受け取った箱は飾り気の無い白の紙箱だった。
「開けてもいいですか?」
「いいよ」
 そのやり取りの後、キランはテープで簡単に止められただけの蓋を上げる。

 中には薄緑色をした、透き通った石。石の中心を通るように、黄色い稲妻模様が描かれている。大ぶりな石の中に眠る金色の模様は、鼓を打つ心臓のように、静かに規則正しく発光している。
「雷の石? あ、ありがとうございます」
 イッシュ地方では、進化の石は手に入れ難い。法外な値段で売られているところもあるが、それ以外では、各地にある洞窟で探すしかない。それも、何日もかけて、何十回も空振りを繰り返してだ。
 胸が詰まって何も言えないキランに、レンリはお道化た調子で「気に入らなかったか?」と問う。やっとのことで首を横に振る。レンリの表情を見られなかった。
「キラン」
 彼女は窓の外を指差した。
「意外と綺麗だ」
 キランが窓の外を見ると、そこには限り無く広がる光の海があった。町の灯りが視界を埋めていた。
 北の方でポケモンミュージカルの看板が虹色のグラデーションに光っている。隣に建つ二つのドームの屋根も細かな電飾に彩られていた。西に首を回せば、住宅街の暖かな橙色の明かりが見えた。窓の端に、リザードン橋とも呼ばれるホドモエの赤い跳ね橋が辛うじて見える。そこから目を逸らして東の方を見ると、ぽっかり穴を空けた暗い空間の向こうに、美しい曲線を描いて光るワンダーブリッジが見えた。キランがその橋をずっと眺めていると、不意にレンリと目が合った。
「こうやって、高い所から探せば、母親も見つかると思っていた」
 寂しげな表情をしたレンリに、何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
 キランが黙っているのを見て、レンリは肩をゴンドラの窓に預けた姿勢のまま話を続けた。
「流石に、もうあの時からじゃ遅すぎるか。でも、これからは何が起こってもそこへ飛んでいける」
 困ったらいつでも呼べよ、と言うレンリにキランは「あの」と切り出した。
 急に改まったキランに驚いたのか、レンリは目を丸くして、けれど姿勢はそのままで。
「僕は、レンリさんのことが好きです」
 その後に、気の利いたことを言う筈が、脳みそが熱にやられて動かなくなったみたいだった。
「付き合ってくれませんか?」
 それだけ言うのが精一杯だった。

 下げてしまった顔を上げる。
 窓の外では夜景が移ろう。
 光の群れを見つめるレンリの顔が、窓ガラスに映っていた。

 ゴンドラとフレームの連結部分が、キイー、と音を立てた。間があって、レンリが口を開く。
「ゾロアークに育てられた人間がいた」
 目を動かさないまま、言葉だけが動いた。
「そいつは、自分のことをゾロアだと思い込んでいたらしい。自分は人間に化けてるんだの、いつか進化するんだのと言って聞かなかった。お前はそんな奴の相手は嫌だろう。私も願い下げだな」
 そこまで言って、レンリは笑みを作った。いつものように、不敵で、有無を言わせない笑みを。
 そして真顔に戻った。
「すまないな、キラン」
 キランに出来たのは、「いえ」と小さく呟いて首を振ることだけだった。
 観覧車は、落ちて行く方向に向かっていた。

 結局、要するに、自分にレンリの恋人なんて無理で、釣り合わなくて、彼女を支えることなんて出来ないのだとキランは思った。
 一緒に観覧車に乗って、夜景を見て、浮かれた自分の行動を恨みたかった。軽率だったと思った。
 せめてあの時、もっと何か言えれば良かったのに。しかし、どんなに後悔しても、逃した好機は帰って来ない。
 それに、今は彼女の過去を受け止める自信がなかった。病院のベッドで垣間見ただけのそれにさえ、キランは身動き出来なかった。
 もっと強くならないと。ルーメンがシビルドンに、テネブラエがシャンデラに進化した時になれば、あるいは。
 キランは扉を開けた。

 五月二十五日。

「お早う、キラン」
「お早うございます」
 何も変わらないまま、今日も一日が始まる。
 キランはデスクにつき、鞄の中の物を机の上に置いた。コトリと何かが当たる音がした。バサバサと羽音がして、青蝙蝠が机の上に飛び乗った。
 ノクティスが薄緑色の綺麗な石に鼻先をくっ付けていた。
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