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ラピメント
 彼女は私を捕まえて、至極嬉しそうにしていました。
 満面の笑みで私を抱え上げ、「これからよろしくね、リグレー」と何度も繰り返すのです。
 しかし、彼女は私を見てはいませんでした。

 それがはじまりでした。


 □×××××


 月が綺麗です。
 雲のせいでしょうか、あんな風に空に紺藍の濃淡が付いているのを、私ははじめて見ます。
 冬は寒くて敵いませんが、そのせいで月や星が綺麗に見えるのは、なんと言いますか意地悪な気がします。ええ、意地悪。

 天然のプラネタリウムもいいですが、私はツバキに毛布を掛けることにします。
 私の主人、ツバキが風邪をひいては嫌ですから。
 ツバキは何か夢を見ているのでしょう、むにゃむにゃと寝言でお礼のようなものを言いました。その様子が微笑ましくて、私はふと胸の奥に小さな火が灯るのを感じました。
 そして、私は夜闇に紛れて動くものがいないか、サイコパワーで辺りに気を配るのを忘れずに、再び空を見上げ、星を数える作業へと戻ります。

 私はツバキを守らなければならないのです。命に替えても。


 □×××××


 私を捕まえた彼女は、まずこう指示しました。
「はやく進化してね、リグレー」
 相変わらずの満面の笑みで、しかし少しも私を見ていませんでした。

 修行が始まりました。
 彼女は私を野生のポケモンと戦わせたり、トレーナーのポケモンと戦わせたりしました。とても熱心でした。
 捕まえられてひと月も経たぬ内に、私は身に付いた強さをさらに大きな器に移したいと願う衝動を身に溢れさせ、気付くと眩い光を放ってひと回り大きな土気色の体へと進化していました。

「やったわね、オーベム」
 彼女は、それはそれは大喜びしました。その場で幼い少年でもないのに、年甲斐もなくその場で何度もジャンプして、バトルしたトレーナーが吃驚するぐらい、異様な喜びようでした。
 しかし、それは私が進化したからなのでしょう。そう合点してバトル相手が去って行くと、彼女は大喜びの表情のまま、私をギュッと抱き寄せてこう言ったのです。
「ねえ、お願いがあるの。聞いてくれない?」
 彼女は大喜びの表情のまま――口元は異様に釣り上がり、目を油まみれの死肉のようにギラギラさせて、私に頼み事をしました。


 私は頷きました。
 難しいことですが、進化した私に出来ないことではありません。
 それに私は彼女のポケモンですから、断ってどうするというのでしょう。

「ありがとう、オーベム」
 彼女は嬉しそうにお礼を言いました。しかし、相変わらず私を見ていないような、そんな気がしました。



 私はその夜、ボールから外に出されました。
 月は下弦だったか上弦だったか、とにかく半月で、それに薄い雲がいっぱいかかっていたのをよく覚えています。
 水銀灯を模した街灯が、明るく道を照らしており、そこかしこのビルやマンションからも光が漏れ出していて、星がよく見えない夜でした。
 私は地面から半端に浮きながら、目的地へと移動します。
 私が着いたのは、あるマンションの一室の近くでした。
 マンションといっても、彼女が住んでいるような古くて狭いものではなく、新しくて綺麗で一室が広いものでした。彼女が住む、三階建ての木造のアパートメントとは違い、鉄筋コンクリートで建て上げられた、階が二十はある大きなものです。
 月明かりでは細部が分かりませんが、外壁をレンガ模様の壁で設えてあり、ベランダなどは角形ではなく少しカーブを描いていて、なかなかお洒落に作りこんでいるようでした。部屋の窓はどれも大きく、どれも凝った装飾の木枠にはめ込んでありました。
 私は目的地周辺に着くと、テレポートを開始しました。
 慣れない場所に行くのですから、できるだけ目的地との距離を縮め、対象をはっきりイメージしなければなりません。
 私は部屋のすぐ外にいます。
 ここから中に入るのですが、出入口になりそうな所には鍵が掛かっていますから、テレポートで中に入らねばなりません。

 私は大きな窓に引かれた花模様のレースのカーテンの隙間から中を窺い、家具の位置を把握すると、それらにぶつからないようテレポートで中に飛びました。

 リビングのような場所に来た私は、耳を澄まし、人の気配がする方へと進みます。
 手入れの行き届いた布張りのソファ、重そうな黒いテーブル、使った形跡のあまりない対面キッチン。
 そういったものを横目に見て、私は寝室へと進みました。
 リビングにあったフロアスタンドライトを小さくしたような照明に、小さな橙の明かりが灯っています。
 ひとりには広すぎるベッドの上で、男が眠っています。
 その寝顔は端正で、整いすぎるほどに整っています。ただ、顎が細すぎると思いました。
 それ以外の部位は、厚みが辞典ほどもある羽毛布団に覆われて見えません。

 私は男の枕元に足をそっと乗せると、三色の電球が付いたような手を男の頭にかざしました。そして、目を瞑りました。

 彼女の願いはごく単純なものでした。
「彼と恋仲になりたいの」
 ただ、ひとりでは叶えられない願いでした。



 彼女はうっとりとした面持ちで、レストランのテーブルについています。
 フロアに敷き詰められた絨毯は足音を吸い込めるほどに分厚くて、薄紫に唐草模様みたいなものが描かれています。
 私たちの他には、客の姿は数人しか見えません。しかしその誰もが、一目見て上等だと分かる靴を履き、男はスーツを、女は飾り立てられたドレスを着て、気取った手付きで料理を口に運んでいるのです。
 大きな窓の外に夜景が見えます。家やビルに細かな明かりが灯って地上の星空のようになっているのが、高い場所から一望できるのがよく分かりました。地上の星空とは言いましたが、妙に等間隔で寂しげに瞬いたりして、どうにも本物の星空のような情緒がありません。遥か遠くでは、奇っ怪な形のネオン看板が、繰り返し同じ言葉を吐き出して、チカチカ光っています。
 彼女の鞄に入ったモンスターボールの中からでも、そんな風に周りの様子がよく見えました。そして勿論、彼女の顔も。

「今日は来てくれてありがとう」
 男の声がしました。
 私は男の方を見ますが、白いテーブルクロスに遮られて見えません。
 彼女は照れたように首を振ります。
 きっと相手はあの男性だと、私は思いました。
「乾杯」
 チャン、と高い音がしました。彼女が動きました。右手にグラスを持って、中の液体に口付けするようにワインを飲んでいます。
 そして、少しの静寂。
「何故だか、急に君に会いたくなってね」
 彼女の口元が緩みます。
 ただ緩んだ、というよりは、口からこぼれ出そうな邪悪なものを飲み込んで、笑いで誤魔化しているみたいに見えました。
「オードブルでございます」
 黒と白の服のウェイターがやって来て、料理の説明を始めました。
 彼女は口を真一文字に結んで説明を聞いています。
 食器同士が当たるかちゃかちゃという音。
 テーブルに食器が当たる静かな音。
 料理の説明をするウェイターの声。
 その合間合間に、二人の声がします。

「暫く会ってなかったね。何だか懐かしいよ」
「まさかあんな所で再会するなんて思ってもみなかった」
「修学旅行の時のこと、覚えてる? くじ引きで一緒の班になったんだっけ」

 思い出を引き出す男の台詞に、彼女は黙って頷きながらワインを口に運びます。
 男が「覚えてない?」と言うと、女は穏やかに笑って「覚えてないわ」と返します。
 そして、話している内に、「ああ、思い出した」と言うのです。


 ここまで至るのには、正直、骨が折れました。

 記憶というものはそう簡単に外からいじれるものではないのです。
 対象が動くと駄目。相手に気付かれても駄目。記憶を探る間、当然私は動けませんし、サイコパワーを脳みそをいじるのに使ってしまっていますから、襲われたら念力で迎撃することもままならないのです。
 だから、男が眠っている間にこっそりやるしかありませんでした。

 男の記憶の中をざっと把握し、私は想起回数の少ないものから手をつけました。
 あまり思い出さない記憶の方が、いじりやすいのです。
 私は男が子供の頃、小学校とか呼ばれているものに通っていた時期の記憶を選び出し、その記憶の景色の中に彼女を紛れ込ませました。
 本当は男と彼女が会ったのはごく最近になってからでしたが、男と彼女は小学校時代からの知り合いであるということにしました。
 男は彼女に会うと、昔を懐かしむようになりました。
 私はさらに記憶をいじりました。
 進学した後、たまたま道で会った幼い頃の初恋の相手が彼女だったことにしました。
 男はあの時、運命を感じたんだと彼女に言いました。
 ひと月ほど前、男が彼女のハンカチを拾って渡したことにしました。
 男は何も言いませんでしたが、私はその記憶の中で、男の手が女に触れたことを知っていました。

 そうやって、男の中に彼女の割合を増やしていきました。

 その道中、男は彼女と親しく話すようになりました。簡単なランチを共にするようになりました。
 そうやって、男が自分で自分の中の彼女の割合を増やしていけば、もう成功したも同然でした。

 彼女がお手洗いに立ちました。
 彼女が鞄を持ち上げた時、一瞬だけ彼の、彼女を穴が開くほど見つめている恍惚とした顔を見ました。
 必然の結果でした。

 私はこの時、鼻高々でした。見事、彼女と彼を恋仲にするという難題をやってのけたのですから。
 さり気なく彼の記憶の背景の中に彼女の姿を挿し込みました。
 ふとした瞬間、男の前に彼女が現れたのだと、そう仕組みました。
 男はそれに気付かず、彼女が運命の女性だと、そう思い込んだのです。私は誰も知らない定理を見つけたかのように、浮かれ、自惚れていました。

 彼女は用を足すと、鏡の前に立ってにっこり笑いました。それはまるで、笑顔の練習をしているようでした。


 彼女は度々、男と会うようになりました。
 会う度に不思議と彼女は美しくなっていきます。
 もう私の力は必要ありませんでした。
 それでも私は隔日毎に男のマンションを訪れては、細かに記憶をいじり続けました。
「小学校のアルバムを見たんだけど、君の写真が見つからないんだよ」
 と言われれば、その夜、男の中の些末な矛盾を始末するために参上しました。
「ねえオーベム。私、今日のディナーの時、知ったかぶりしてワインの名前を間違えちゃったのよ」
 と言われれば、男性の寝室に入り込んで彼女の粗相の記憶を消しました。
 男はますます彼女に夢中になりました。もう彼女しか見えてないと言っても、過言ではありませんでした。
 いつしか、私が手を下さずとも、男は自分で自分の記憶を書き換えていくようになりました。
 男は肥大した彼女の記憶に合わせるように、自分の真実を記憶した部分を塗り替えていったのです。

 そして、来たるべくしてその日はやって来ました。
 男は小さな箱を鞄から出すと、手で捧げ持つようにしてその蓋を開けます。
「わぁ……」
 彼女が感嘆ともため息ともつかない声を上げます。
 ブリリアンカットを施された金剛石が、白金の環に抱かれて光を反射しています。
 彼女が熱っぽくそれを見つめ、その彼女を男が見つめていました。
「結婚しよう」
 彼女は頷きました。当然の帰結でした。


 男と彼女は結婚し、晴れて夫婦となりました。
 大きな会場を貸し切り、夫婦の関係者も大勢呼び、豪華な料理が振舞われ、結婚式は盛大なもの、となるはずでした。
 出来なかったのです。
 前日に新郎が倒れ、高熱を出してうんうん唸っていたのですから。
 医者にはただの疲労だと言われましたが、私は頭の中をいじったせいではないかと、密かに焦っていました。
 しかし、診断では何も見つからなかったらしく、私はほっとしました。
 それともうひとつ、結婚式が出来なくて私はほっとしました。
 結婚式に新郎の昔馴染みがやって来て、思い出を話すこと、その想定をすっかり呆けて忘れていたのです。
 何はともあれ、ボロを出さずに済みました。
 結婚式は挙げられなくとも結婚は出来るらしく、彼女は男の病が治るとすぐ、広くて綺麗で新しい男のマンションに入り込みました。

 それからの生活は順調でした。
 男は仕事が忙しいらしく、四六時中一緒にいるわけにはいきませんでしたが、彼女に会う時は、それはそれは楽しそうにしていました。
 彼女の方も、望みのものを手に入れられて満足そうでした。男は金持ちで、ルックスもいい。服飾やインテリアのセンスもありましたし、美味しい食を提供するレストランを見つけて彼女と共に食事をするのを好みました。

 息子も生まれました。
 男に似て顎が細く、彼女と同じ臙脂色の髪をしていました。

 部屋の中には原色の玩具が溢れ、彼女と息子と私の三人で、共に遊んで過ごすことが多くなりました。
 男は帰って来ると真っ先に息子の元へ向かい、高い高いをするのが習慣になりました。豪華な食事より、子供と家でのんびりと食べるご飯の方をより好むようになりました。男は色々な絵本を買ってきたり、家にいる僅かな時間でその絵本の読み聞かせをしようとしたり、とにかく息子の気を引こうと必死でした。その努力が実って息子が父親に反応を返すと、父親はその反応を十倍にして喜びました。
 逆に彼女はつまらなさそうにしています。
 そうしてある時から、私と息子を残して外に出るようになりました。
 幼い子供を置いていくなんて、とは思いましたが、私が面倒を見ているので大丈夫でしょう。
 彼女は前よりも晴れやかな顔をしていることが多くなりました。楽しそうに息子をあやすようになりました。実は、ちょっと彼女はヒステリックになって始終イライラしていて、私は心配していたのです。でも、これで良かったと想いました。
 きっと、外で息抜きをしてきたのが良い方向に働いているのでしょう。
 私は息子と遊ぶのに夢中でした。
 彼女がめかしこんでいるのに気付きませんでした。


 □×××××


 私はツバキの隣にゴロリと横になり、白金の粉を撒いたような夜空を見上げます。
 毛布は被りません。そうする資格がありませんから。

 ツバキはぐっすりと眠っています。臙脂色の髪が、夜風に吹かれてそよいでいます。その寝顔を見て、私の胸はチクリと痛みました。

 いつも、思うのです。
 どこで間違ったのだろうと。
 間違いに気付いた時、記憶を書き換えてしまえば良かっただろうか、と。


 □×××××


 平穏に、日々は過ぎました。
 息子は学校に通い始めました。テストの度に良い点を取り、友達と一緒に野球ごっこに興じているようでした。
 夫は相変わらず仕事が忙しく、彼女は相変わらず、時々外出していました。
 そんなある日のことです。

 その日は平日の昼下がりで、息子は学校に行っていました。
 彼女はいつものように出て行き、私は部屋にひとり取り残されました。

 ふと、私は彼女がどこに行くのだろうかと思いました。
 私はそっと部屋の前にテレポートしました。
 そして、階段を降りて玄関に向かう彼女の後を、こっそりつけたのです。

 彼女は慣れた様子で町中を歩いて行きました。
 いつも行くデパートの方向とも、公園の方向とも違います。
 彼女は空き缶がいくつも転がった薄暗い通りを通って、繁華街の方向に進んでいきました。
 昼間から明かりの灯ったネオンの看板の下を通り、彼女は小汚い店の前にいる、だぶだぶのズボンを履いて小麦色の肌をした、筋肉をそれなりに付けているけれども頭の悪そうな目をした青年に話しかけます。
 青年もにこやかに彼女に挨拶すると、二人揃って店に入ってしまったのです。
 これは浮気だ、と私は思いました。
 彼女は息抜きする振りをして、浮気をしていたのです。
 いえ、私の早とちりかもしれません。彼女はただ、男友達と会っただけかもしれないじゃないですか。しかし、それにしては、化粧が凝っていた気がしました。
 二人は店から出てきません。私は早々に偵察を切り上げて帰りました。


 夜、夫が家に帰って来ると、彼女は笑顔でそれを迎えます。
 息子も嬉しそうです。
 夫の話に相槌を打ちながら聞き、彼女は料理を食卓に並べます。

 あんなに幸せな家族なのに、浮気などするはずがない。
 私はそう思いました。ただ、確かめたかったのです。

 私は彼女の自室に入り込み、彼女の寝顔を眺めました。
 彼女の体が三つ入りそうな広いベッドの中央に埋もれるようにして、彼女は眠っています。
 部屋にはドレッサーとクローゼットがあるだけで、他には何もありません。カーテンは開け放たれたままで、大きな窓の向こうに、町が出すスモッグで埃を被ったかのように灰色に汚れた星空が見えました。月のない夜でした。
 私はドレッサーの上にある化粧品がどれも、黒いケースに金文字で上等そうに設えてあるのを横目に見ながら、静かに彼女の近くまで移動しました。邪魔にならないよう、枕に足を乗せ、ベッドのヘッドボードに体をもたせかけました。そして、目を瞑りました。

 忘れていた感覚が蘇りました。
 細い管の中を通って、電飾のようにチカチカ光る彼女の記憶を探ります。
 彼女の記憶を見、しかし壊してしまわないように。
 注意深く記憶を調べながら、私は懐かしい気持ちになりました。
 私と会った時の記憶。男と食事に行った時の記憶。息子が生まれた時の記憶。どれも少しずつ色褪せていて、そのためにかえって懐かしさを喚起されます。
 私は夢中になって思い出のアルバムを捲るように記憶を見て回っていましたが、本来の目的も忘れられませんでした。

 私は最近の、色鮮やかな記憶を探りました。
 彼女は青年と食事をしています。夫とは食べないような、脂ぎってソースが無闇矢鱈とかけられた、不味そうな料理です。
 彼女は青年に笑いかけ、青年も彼女に笑いかけます。
 食事が終わり、彼女が支払いを済ませると、二人は店を出て繁華街のさらに奥地へと向かいます。

 そして。

 私は雷で打たれたようになって、思わず彼女の記憶から手を引きました。
 乱暴にサイコパワーを止めたので、その周辺の記憶に傷が入ったかもしれません。でも構いませんでした。
 私は体の芯が冷えたような感覚を味わいながら、彼女の頭にもう一度手をかざしました。
 そんなはずはない。
 彼女が浮気などするはずがない。
 完璧に近いぐらい素晴らしい夫がいて、利口で愛嬌のある息子がいて、何故。
 私は再び彼女の記憶を探りました。
 今度はもっと丹念に、昔まで遡って調べました。

 それに関係する記憶はとても鮮やかだったので、すぐに分かりました。
 やっぱり、浮気だったのです。
 さらに言えば、相手はあの青年ひとりではありませんでした。
 複数の相手を取っ換え引っ換え、そう、幼い赤ちゃんだった息子を放って外に出ていったあの日から、彼女の浮気は始まっていたのです。
 彼女の思い出は、家族と過ごした時間で彩られてはいませんでした。
 家族との生活をいかにも楽しそうに過ごしながら、いかに年下の男性を引っ掛け、深い関係まで持っていくかに重点が置かれていたのです。それが、彼女の生活の根幹といっても、差し支えありませんでした。それがずっと、ずっと続いていました。彼女の記憶の中で、輝いているのはそれでした。
 息子がテストで百点満点を取ってきても、野球で大活躍しても、その記憶には敵いませんでした。息子の成長は横に押しやられ、彼女の中には名も知らぬ卑しい目をした男たちの記憶ばかりが繁茂していました。息子が歩き出しても、つかまり立ちしても、寝返りを打っても、彼女の浮気相手には敵わないというのです。彼が「まんま」と言い、「ママ、パパ」と言い、「オーベム」と言うようになっても、彼女は。
 なぜ。
 どうして。
 息子は? 息子のことは?
 私は脳みその中を見るのを止めて、眠り続ける彼女の顔を見つめました。

 その顔は綺麗です。
 若々しくて、瑞々しくて、艶やかです。これも浮気をしていたからでしょうか。

 私には分かりませんでした。
 どうして彼女が浮気をするのか。
 あんなに完璧な夫を苦労して手に入れて。そう、私が、苦労して、手に入れて。

 ……。

 私は彼女の顔を、とっくり、じっくり、眺めました。
 彼女は昔から私を見ていませんでした。
 昔から今の夫となる人を見つめ、そして今は、息子を見つめていると思っていました。
 私は一度も彼女に見られたことがありませんが、それでも悲しいと思ったことはない、はずでした。


 私は彼女の顔を網膜に焼き付けました。きっと彼女のこんな顔を見るのも、最後でしょう。
 私は手をかざしました。


 その次の日は、凪のように穏やかに、静かに過ぎました。
 彼女は外出もせず、ただにこにこと笑って食事を作り、息子の話を聞き、帰りの遅い夫を夜更けまで待っていました。彼女はいつもより機嫌が良いくらいで、それがかえって不気味でした。
 あれはただの凪ではなく、嵐の前の静けさだったのでしょう。
 私はもう、引き金を引いてしまったのです。
 小さな蝶の羽ばたきのように、微かな引き金を。
 そしてそれは回りまわって風を狂わし、大嵐を呼んだのです。


 夫はクレジットカードの請求書を見て、度肝を抜かしました。
「どうしてこんなに使ったんだ?」
 夫の問いにも聞く耳持たず、風の吹くまま、お気に召すままといった調子で高い笑い声を上げながら、彼女は般若のような表情で豪奢なドレスを次々と取り出しては、体に合わせて投げ捨てていきます。
 夫が腹に据えかねて彼女の肩を掴んで自分の方を向かせると、彼女は目を丸くして、「あなた誰?」と言いました。

 男が息を呑みました。
 睨みつけるように私を見ましたが、私は知らんぷりをしました。
 これでよかったのです。
 他に男がいるのならば、夫がいてもいなくても変わりないでしょうから。

「ねえ、あなた誰なの?」
 いっそ天真爛漫と評してしまいたいような調子で、彼女はそう言い放ちます。しかし、その目は純真とは程遠く、濁り切っていて錆びた鉄のようです。色とりどりのドレスを投げながら、彼女は割れた悲鳴のような甲高い声で笑うのです。
 元夫は、がっくりと肩を落としました。


 それから、彼女は買い物に大半を費やすようになりました。
 高価な宝石、服、靴、バッグ、化粧品、使いもしないそれらをカード払いで買い、カードを差し止められると、俗に言うサラ金から金を借りて買い物するようになりました。
 当然、返済などできませんが、彼女はまるで借りた金をもらったもののように使うのです。
 毎日のように装飾品を抱えて家に戻る彼女の目元には大きな隈ができていました。彼女の目は常に敵を警戒しているかのように釣り上がり、ギラギラとして、買い物をしていなければ誰かに襲いかかってしまいそうな、そんな雰囲気でした。まるで、金を使い続けなければ生きていられないと、そう言いたげな目をしていました。
 広かったマンションから引越し、狭いアパートに一室に移ることになっても、彼女は事態を理解できていないようでした。
「いい加減にしてくれ! 買い物をするなと、何度言ったら分かるんだ?」
 狭い四畳の二部屋きりの和室に、所狭しとバッグや、ストールや、装飾品の類が敷き詰められていて、過剰装飾の布切れに囲まれた男が声を荒げます。しかし、彼女は目を離せば再び買い物に繰り出します。彼女はきっと、買い物しなければ死んでしまうと思っているのです。男はその内、彼女に何も言わなくなりました。仕事に明け暮れて、帰って来ない日が多くなりました。しかし、離婚しようとはしませんでした。きっと、男の中の彼女の割合が多過ぎて、別れるという選択肢を選べなかったのでしょう。
 夫の代わりにサラ金の取立てが来ましたが、返済の意義を理解できない彼女に、サラ金の方が音を上げました。
 息子は黙って、学校と家の往復を繰り返して、専ら与えられた狭い自室に篭るようにしていました。母親の方を見ようともしませんでした。
 息子はよく、痣や擦り傷を作ってくるようになりました。その時は、遊んでいて転んだのだろうぐらいにしか考えていませんでした。しかし、今思えば、学校でも阻害されていたのかもしれません。彼は何も話しませんでした。ただ、眼光だけが鋭くなっていきました。
 周りに暴風が吹き荒れる中、私だけは台風の目にいるかのように、風が大地に牙を剥き、草木を抉り抜く様を静かに傍観していました。


 過度に成長した熱帯低気圧は、彼女や、夫や、息子の悲鳴を呑み込んだまま、狭苦しい1Kのアパートの部屋に居座り、ますます肥大し続けているようでした。
 彼女は日に何度も買い物に繰り出し、紙袋を腕いっぱいに吊り下げて帰っては、それをサラ金に持って行かれました。しかし、彼女はそれを気にする余裕もなく、次の買い物に繰り出すのです。
 たまに夫が帰って来ても「あなた誰?」と言って追い返そうとします。それでも夫が居座ろうとすると、半狂乱になって叩き出そうとしました。彼女の振り上げた拳が小さな窓に当たり、すぐ外の庭にガラスの破片が散逸しました。窓を直す金も、塞ぐダンボールもなかったので、家の中には延々と寒風が吹き荒ぶことになりました。
 かつての浮気相手に町中で話しかけられても、「あなた誰?」でした。誘われても、その意図がさっぱり分からないようでした。むしろ買い物の邪魔をされて、怒っているようでした。
 いつも行くブティックの店員は覚えているのに、息子の友達の母親となると、さっぱりでした。
 そして、息子が帰って来ても、「あなた誰?」

 ……今、なんて?

 彼女は焦点の合わない、惚けた目で息子を見ていました。
「あなた誰?」
 くもりのない銀色の針のような台詞が、息子の心臓を刺し貫いていた、と思います。
 針で縫いとめられた息子は、青ざめた顔をして、そして、かつての母親から目を逸らすと、血が流れるのも構わず、針から身をちぎって、狭い自室へと走り込みました。


 どうしてでしょう。なぜでしょう。こんなはずじゃなかったのに。

 私は息子の部屋にテレポートすることもできず、ただその場に浮いていました。

 息子の記憶には触らなかったのに。

 あの日、私は彼女の中の、浮気相手の記憶、浮気相手としたこと、そういった記憶を全て消しました。男に関する記憶は全て消しました。浮気に繋がりそうな記憶は、何もかも全て消しました。必死に夫を手に入れようとした、あの日々の記憶も嫌だったので消しました。
 彼女は少しの間だけ、毒気が抜かれたように静かになりました。一日だけ。
 そして、夫と結婚したもうひとつの目的、金持ちになって欲しい物を我慢せずに暮らすという本能に従って生き始めました。
 少しおかしくなっていました。記憶を大量に消したから、当然かもしれません。

 けれども、息子の記憶には手を触れなかったはずです。


 なぜ。


 そこで私は、重大な間違いを犯していたことに気付きました。
 彼女の記憶の中で、夫はもう夫ではなかったのです。
 夫ではなくただの他人だと、彼女にはインプットされているのです。
 夫がいなければ、子供がいないと考えても不思議ではありません。
 私は失念していました。
 書き換えた記憶が、他の記憶を書き換えてしまうこともあるのだということを。
 彼女には今、金しかないのです。
 息子なんて、いなかったのです。


 □×××××


 言い訳をしますと、記憶を書き換えたり消したりするこの力は、万能ではないのです。
 まず、相手に気付かれてはいけないとは前にも言った通り。その他にも、色々制約があるのです。

 書き換えるのは、想起回数の少ない記憶でなければなりません。
 よく思い出す記憶というのは、鮮明で、強固で、それはそれは書き換えにくいものなのです。
 逆に言えば、書き換えられるということは、それが大した記憶ではなかったということなのです。

 そして、記憶というのは、海原の中の島にぽつんとある宝箱のようなもの。
 人は思い出す度、島に橋をかけて、宝箱を開けに行くのです。
 時折橋がどこにあるか忘れたり、島の位置を忘れたりして、記憶を思い出せなくなることはあります。
 私たちオーベムは、橋を消すことで、その記憶を脳から消し去るのです。
 しかし、宝箱そのものを消す力は、我々オーベムにもありません。
 消された記憶があっても、思い出そうとすれば、何かの切っ掛けで橋がかかり、思い出せることもあるのです。

 だから、というわけではありませんが、息子のことを易々と忘れてしまった彼女にも責任はあるのです。

 私の罪が消えるわけではありませんが。

 そういえば、久しく空を見ていなかった気がします。


□×××××


 倒れた、と聞いた時、病院に飛んでいったのは私と息子だけでした。
 彼女はいつも通り、金を使うために使って遊び暮らしていました。
 息子は母親から目を背けて家を出ました。私がその彼に寄り添うようにして病院に向かうと、地下に案内されました。

 冷たい部屋に寝かされた息子の父親の顔には白い布が被せられていました。
 床から冷気が這い上がってくるのは、ここが地下だからという理由だけではないような気がしました。
 父親の顔を何気なく見ると、ちょうど目の辺りで白い布が落ち窪んでいて、私は見えない視線に射竦められたような気がしました。それは気のせいではなかったかもしれません。布の下、虚ろな眼窩、崩れ落ちた眼球で、彼が「俺の家族をこんなにした奴は誰だ」と、私を睨めつけている、そんな気がしました。それに耐えられなくて後ろを向いたら、次は背中に視線を感じるのです。背中に長い針を埋めていくような、そんな視線を感じるのです。諦めて遺体の方を向くと、それはさっきのような寒気のする威圧感を放つものではなく、両腕がうっ血したように赤紫色になった、痩せ細った男性の遺体になっていました。それが、まるで見慣れない男性の姿のように見えて、私は震撼しました。

 息子は布の隙間から僅かに見える父親と同じくらい白い顔になりながらも、医者の説明を、二本の足でしっかり立って聞いていました。
 過労だろう、と言われました。急に倒れて、そのまま死んでしまったそうです。
 息子は蒼白な顔で真っ白な布に覆われた父親の顔を見守っていました。その顔には、悲壮なぐらい強い決意のようなものが浮かんでいました。

 これは後になって偶然耳にしたことですが、男の脳みそは、特に海馬の部分が、干物みたいにからからになってひしゃげていたそうです。私が記憶をいじったから、そうなったのでしょうか。私が記憶をいじった人は、皆そうなるのでしょうか。

 病院を出ても、息子は泣きませんでした。
 家に帰っても、いつものようにブランド品に囲まれた母親をちらりと見ただけで、何も言いませんでした。何もしませんでした。
 いつものようにサラ金の取立てが来て、ドアを蹴っていきました。
 息子は何もない自室で、じっと正座をしていました。
 サラ金の連中に、殆ど取られてしまったのです。彼女が買った物も、昔貰った指輪も当然奪われ、息子の学用品までも持って行かれてしまいました。残っているのは私のモンスターボールぐらいでした。

 息子は泣きもせず、ただじっとしていました。

 私は母親の側にテレポートすると、彼女の頭に手をかざしました。
 本来なら眠っている相手にやるべきですが、今の状態の彼女なら、どうとでもなってしまうでしょう。

 私は彼女の頭の中に入ると、

 橋という橋を全部、

 壊しました。



 家の前に黄色い救急車が来て、男が数人がかりで彼女を押さえつけて連れて行きました。
 彼女の目は虚ろで、どこを見ているのかさっぱり分かりません。
 訳の分からない嬌声を上げては、何の前触れもなく体をくの字に折ってしきりに苦しがります。
 彼女の状態は、混沌そのものでした。
 生まれたばかりの赤ん坊が、世の中の秩序を何も知らぬまま、大人になったかのようでした。目に映る色のグラデーションやスペクトルの変化を物体の持つ記号として処理する術を知らぬまま、彼女は景色を見て、混沌の色の洪水に溺れるのです。記憶と共に言葉を奪われた彼女は、それを混沌だと言い表すこともできず、ただ喚くのです。
 連れて行け、と言って男のひとりが車のドアを閉めました。
 黄色い救急車は、黄色いランプを静かに回して発車しました。

 母親を見送った少年の元に、スーツを着た大人がやって来て、これからのことを話しました。
 彼は暫く、施設で過ごさねばならないそうです。
 その後、里親希望者がいれば、そこで暮らせるそうです。
 学校にも行けるそうです。学用品は施設で用意するそうです。

 大変だったね、と言ってスーツの人が少年を抱き締めました。
 彼は人形みたいに、泣きもせずに体を固くしてただつっ立っていました。
 目がビー玉みたいになっていました。


 □×××××


「……どうしたの?」
 いつの間にか、ツバキが起きていました。
 私は何も言いません。何も言いたくないのです。
 そんな私の頭を、ツバキが身を起こして撫でてきます。

「星が綺麗なんだ」
 そう言って、ツバキは空を見上げます。
 無邪気な目で、空を見上げるのです。


 □×××××


 私は一時的にモンスターボールに閉じ込められ、どこかの保管庫に入れられることになりました。
 この後、処分されるかもしれません。野生に返されるかもしれません。私にはどちらでも変わらないことでした。

 私はずっと考えていました。
 一体どこで間違えたのでしょうか。彼女の浮気に気付いた時。男性と結婚した時。それとも、はじめから何もかも間違っていたのでしょうか。
 間違えた場所から、順に記憶を書き換えたら、その過去のその地点からやり直すことが出来たでしょうか。
 彼女の記憶を巻き戻し、男性の記憶を正し、そうしていたら、こんなことにはならなかったでしょうか。
 夫より息子より、浮気と金が大切だった彼女は、やり直してもまた同じことをやるのではないでしょうか。
 私と出会わなければ、こんな過ちは起きなかったでしょうか。彼女は他のリグレーを捕まえて、同じ過ちを犯したでしょうか。

 もうどうにもならないのだ、と私は思いました。
 モンスターボールに閉じ込められ、私はもう少年に会うことは出来ないのです。

 彼の人生を滅茶苦茶にしてしまいました。
 どの過去からやり直しても、彼の人生は滅茶苦茶になるような気がします。
 私と彼女が出会ったことが間違いなら、彼が生まれたことも間違いなのでしょうか。だから生まれてからも母親に軽んじられたのでしょうか。
 私はそうは思いたくありません。

 彼を、生まれた時からずっと見てきました。利口で愛嬌のある少年です。顎が細くて臙脂色の髪で、見かけは不健康そうな感じだけれど、本当に元気で、やんちゃな少年なのです。彼が幸せになるところを見たかったのに。
 彼は私のせいで、家族を失ってしまって、けれどその家族はそもそもはじめから間違いで。


 どうすればよかったのでしょう。


 保管庫の扉が開きました。私の入ったモンスターボールが、迷いなく持ち上げられました。
 私はモンスターボール越しに私を持ち去った人物を見て、思わず声を上げました。

 臙脂色の髪、細い顎。
「ツバキ!」
 少年は私の声などに耳を貸さず、町の外まで走り抜けたのです。
 そして、もう十分町から離れた所まで来ると、私をモンスターボールから出しました。保管庫にいて時間感覚がなくなっていましたが、夜になっていました。

 なぜでしょう。どうしてでしょうか。
 私は彼に酷いことをしたのに、なぜ、なぜ。

「ラピメント」

 ツバキが呟きました。
 意味が分からず、私が止まっていると、彼は恥ずかしそうに笑ってこう言いました。

「ラピメント。お前の新しい名前だよ。これから一緒にいよう。ずっと一緒に生きようよ」

 なぜ。

「俺にはもう、お前しか家族がいないからさ」

 私は涙を堪えました。
 彼には言葉では尽くせないほど、取り返しの付かない、酷いことをしました。
 なのに、彼は家族だからと言って、私を手元に置いてくれるのです。私を見ていてくれるのです。私を、抱き締めてくれるのです。

 私は誓いました。ツバキのためなら何でもします。
 ツバキを守るため、幸せにするためなら、鬼にだってなりましょう。
 ツバキにとって私がたったひとりの家族であると同時に、ツバキは私にとって、家族であり、主人であり、守るべき唯一無二の存在なのです。


「ラピメント、星が綺麗だ」


 ツバキ、私はあなたを守ります。必ず、この命に替えても。
 それが私に出来る、あなたへの罪滅ぼしなのです。

 刃のような二十三夜月が空に掛かっています。
 星はそれぞれに点のような光を放っています。
 まるで、橋を無くして手が届かなくなった浮島の宝箱のようだと、私は思いました。
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