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スカイハイ〜前編
 巨大な一枚岩に見守られた、辺境の村。
 そこに住む青年、トアルの朝は一杯のコーヒーから始まる……なんて、洒落たものなわけがない。
「おい、いつまで寝てんだ。暇なら水を買ってこい、水を」
 家主の娘にベッドから蹴り落とされ、家を追い出される。居候の朝はこんなものだ。コーヒーどころか冷や飯にさえありつけてないが、トアルは二十六歳のおっさん予備軍にして、無職である。
 家主の娘になにか文句があろうか、いや、ない。なぜならトアルは居候で無職だから。
 そんなわけで、トアルは村から四〇キロ離れた隣町に向けて、えっちらおっちら、歩き始めた。その背中に、素晴らしいストレートが突き刺さった。
「買い物にどんだけ時間かける気だ。ポケモンに乗ってけ」
 トアルはモンスターボールを受け取り、しかし中身を開けず、たまたま通りかかった自動車に手を上げて相乗りを頼んだ。
 もしも、自動車が通りかかってなかったら。トアルは当初の予定通り、歩いて町に行こうとしただろう。そして、それに業を煮やした娘にドロップキックの一つでも食らって、買い出しには娘が行っていただろう。空は代わり映えのない青一色の晴れ空で、にも関わらず、トアルは家に閉じこもって彼女の帰りを待っていただろう。
 奇しくもこの、砂埃まみれでボディがベコベコでかつては白だったマニュアルのセダンが、トアルの運命を変えたのだった。

 トアルはいつにない幸運によって三十分もしない内に隣町に到着した。いや、あのオンボロ車の窓がどうしても上がらなくて、外から入ってくる砂でトアルが埃まみれになったことを差し引けば、トントンかもしれない。
 腰のベルトに引っかけたボールがガタガタ揺れた。
「落ち着け、ガブコ」
 トアルはボールを抑えた。そうだ、町まで来たんだし、ガブコも会いたいだろうし、家主に会っても……とそこまで考えてトアルはそれをやめにした。
「久しぶりに町まで来たんだ。一杯引っかけて行くか」
 服に付いた砂をバシバシ払い、行きつけのバーまで行く。そしたら例の気の強い家主の娘の先回りがあって、マスターが電話口で笑いながら言うんである。
「おう、トアルなら今来たぜ。お前の財布で昼間っから酒を飲む気だ」
 そこまで言われて、なおも強行するトアルではない。潔く背中を向けたバーのマスターに、要らぬ言付けを頂いた。
「アイオラちゃんが、ウィントに会いに行けってよ。ウィントから確認の電話が来なけりゃ、いよいよお前を追い出すとさ」
 マスターの大声に、バーの中でくだを巻いていた連中が「おうおう、追い出されっちまえ」「アイオラちゃんと同居なんざ許せねえ」と騒ぎ出す。
 トアルは背中を向けたまま、早足でバーを辞した。

 家主の所へ行くのには、少し時間がかかった。
 久しぶり過ぎて、そもそもどこへ引っ越したかも忘れていた。住所とストリート名を突き合わせて、トアルは目的の場所へと辿り着いた。
 広い庭付き一戸建てか、それとも青背景の書き割りみたいな高層ビルか、という二種類ばかり立ち並ぶ町中にあって、そこは珍しく、こぢんまりとした茶色いアパートだった。しかし、豪華なことにエレベーターは付いている。当たり前といえば当たり前だ。
 見覚えがないと思ったら、トアルが来たことのない建物だった。家主がここに引っ越してから、トアルはずっと顔を見せていないのだ。それを思い出すと、トアルは余計に会いたくなくなってきた。
 でも、行かないと家を追い出される。そうなれば、異国で人の良い彼らにすがって生きていたトアルは、すぐに干上がるだろう。
 しかし、もう、それでいい気がしてきた。家主がここにいるのも、その娘のアイオラだけが村に住んでいるのも、元を正せばトアルのせいなのだから。恩人を裏切っておいて、どうしてのこのこ顔を出せる?
 それでも……それでもと考えて、トアルは結局、アパートに足を踏み入れた。どうしたって明日からの人生に困るとなれば、気が進まなくとも顔を出す方を選ぶのがトアルだった。トアルはここまでの道のりで付いた砂埃を払った。全く、どこもかしこも、砂だらけだった……トアルのせいで。

「砂には困らなかったか?」
 ウィントの第一声も、砂の話だった。トアルは曖昧に「ああ」と答えた。そして、横目にチラッとウィントを見た。
 彼は昔と変わらず、かくしゃくとしていた。色黒の肌に白い歯並び、伸びた背筋。髪も未だに黒々艶々としている。娘のアイオラの方はウィントに似てる上、笑って更にそっくりになったところを、かつてはよく見たものだった。
「久しぶりだな。顔を見せてくれて嬉しいよ」
 今も、そうやって笑えば、ウィントと彼の娘は瓜二つだ。彼にちょいちょいと肉を足してやれば、アイオラになるだろう。
 だからこそ、ウィントの杖と曲がった左足が痛々しかった。
「元気してるか?」
 トアルはやっぱり曖昧に答えた。皮肉に聞こえたと思ったのかもしれない。ウィントは笑顔のまま、でも困ったように黙った。
 足を痛めた男のためのアパートは、部屋の造りも狭いものだ。ベッドとテーブルとテレビ、あとシャワー室が、十歩圏内にあるのだ。すぐに目のやり場を失ったトアルだったが、かといって気の利いた答えも言えなかった。
 昔なら何と返しただろうか? 「いいよ、砂の話は。腐るほど見てるんだから、雨でも降ったことにしようや」とでも言う? それこそ皮肉だ。
 ウィントは困った顔のまま笑った。器用だな、とトアルは思った。ウィントはその困り笑顔のまま言った。
「トアルのことだから、俺の足のことをまだ気にしてるんだろう。気にすんなって言っても気にするんだろうが、今日はここまで来てくれたんだ。そのことは横に置いといて、お前に頼み事があってな」
「頼み?」とトアルはオウム返しに聞いた。「おうよ」バン、と物を叩く音がした。それも一度で収まらず、二度三度、数えるのがばからしいくらい続いている。
「シャワー室で暴れてるやつの“おや”になってほしいんだ」
 ウィントは言った。なるほど、音はシャワー室から聞こえていた。
 トアルは脱衣所を覗いた。大きな影の下で、白っぽい色がすりガラスに見え隠れしている。ウィントのことだから、手持ちのポケモンに暴れん坊を抑えさせているのだろう。それも、エリキテルじゃなくフライゴンに抑えさせている。
 トアルは自分のモンスターボールを撫でた。つまり、この暴れん坊はいざという時、ガブコで抑えられるのだろう。ウィントがトアルの手に余るポケモンを押しつけるとも思えなかった。トアルが“おや”となっているポケモンは二匹、ガブコももう一匹も手は掛からない。むしろトアルの方が面倒を見られているくらいだ。
 もう一匹、増えても構わないか。恩人であるウィントの言う事だ。トアルを心配しての提案だろうし。
「分かった。引き取るよ」
「ありがとう。君にお願いするよ」
 ウィントは破顔した。その表情だけでも、トアルはポケモンを引き取ると言った甲斐があると思った。
 トアルは脱衣所に進んだ。
「娘から頼まれたんだが、彼女、全く人に懐かなくてね」
「へえ。ウィントさんに懐かないやつもいるんだな」
「俺だって人の子だ。なんでもうまく、とはいかんものさ」そして少し間を空けて、お前や娘のアイオラとは相性が良かったんだ、と言った。
 懐かしさのにじむ言葉に、トアルは少しばかり眉をひそめた。トアルはほとんど、ウィントに育てられたようなものだ。生家からは絶縁されたに等しい。そこを拾ってもらったというのに、トアルは。
「ポケモン一匹引き取って、ウィントの足の支払いが済むんなら、安いもんじゃないか」
 そう、自分に言い聞かせる。バンバンと、トアルの言葉をかき消してやまないシャワー室のドアを手前に引いた。
 そしてトアルは対面した。自分がこれから面倒を見る――人間の子どもと。


 人間の子どもは、幸いなことに、食うのは遅かった。
 アパートから這々の体で行きつけのバーに行き着いたトアルは、囃す客連中を尻目に、こう注文したのである。
「一番でかい器にデザートを山盛りで頼む」
 するとジョッキにパフェが盛られてきたが、この際容器は問うまい。このガキが大人しくなるというだけで万々歳なのだ。
「ウィントの手に負えない、ね」
 その理由は、ここまでの道中で散々身にしみた。少女はゆっくりパフェをかじっている。
 色素が薄いのだろう、ここらでは見ない白い肌に、長く伸ばされた白い髪はサラサラとして雪の精霊のようだ。いっそ儚げに見える少女だが、その中身は、自動車が飛び交う幹線道路に「当たるわけねーじゃん!」と飛び出すジャリガールだった。当たるわ愚か者。
 その子がじっとトアルを見ていた。見つめ返せば吸い込まれそうな蒼穹色に、トアルは視線を逸らす。
「どうした? トイレか?」
「なあ、おっさん」
「トアル、な」
「トアルも風乗りだったの?」
 その小さな声に、トアルは寸の間ビクついた。「おうよ、おれもウィントも元風乗りだ」とカラッと一口言えりゃあ良かったのに。
 黙ったトアルの代わりに答えたのは、酒を呑んで呑まれていたやつだった。
「そうだ。トアルの野郎、ウィントを突き落としやがって、それからさっぱり空に上がらねえ。祭りで勝ちたいからって、あれはひどかったな。皆もそう思うだろ」
 そこにトアルがいることすら、前後不覚で気づいてない素振りだった。他の酔っぱらいが思わず顔をしかめるほどに泥酔したそいつを、マスターが奥へ引きずっていった。
「あの黒いおっさんを落としたのか? 空から?」
 トアルは見つめる子どもの視線から、顔を背けた。

「なあなあ、トアルが黒いおっさん落としたって? 祭りって何すんの?」
 バーで子どもが半分以上残したパフェを食べ、町外れへの道すがら。白い少女の質問責めに、「黒いおっさんじゃなくて、ウィントな」と訂正だけして、トアルは黙秘を貫いた。その内、相手にされないと思ったのか、少女は質問の内容を変える。
「風乗りって何?」
 いい加減、辟易していた。だが、少女は今は機嫌がいいらしい。パフェを食べてからは、比較的大人しくトアルの横についてきている――と、トアルは彼女の手を握りこみながら思った。質問の一つぐらい、答えるべきだろう。
「風乗りってのは」
 語り出すと長くなるが、起源は約二百年前、この地にやってきた入植者の自警団だと言われている。見渡す限り砂漠の地。地の利は最初、先住民の側にあった。ブッシュを目印に目的地へ行く足並みも、昼の日射からの身のかわし方も、一日の長がある先住民たちの抵抗に、入植者は難儀した。
 しかし、入植者には武器があった。ポケモンを手軽に味方にするモンスターボール。入植者はこの地でナックラーを捕獲し、育て、空から先住民を追い立てる自警団“風乗り”を作り上げた。
 そうして入植が進むにつれ、風乗りは帰化させた先住民を加え巨大化した。巨大化した風乗り組織は分離し、別派閥を生み出した。入植の進捗と共に、風乗りの相手は先住民から、別派閥の風乗りへと移ろった。
 風乗りの一大派閥は自らを主流と言いなし、警察組織の一部となって表舞台に残った。残る派閥の風乗りたちは“空賊”と呼びならわされ、裏社会の闇へと溶けこんでいく。
「つまり?」
 少女がトアルのすねを蹴りまくる。「どうどう。こら、蹴るな。けっこう痛い」トアルがはしょった説明でも、子どもには長かったようだ。
「空賊とドンパチやる正義の味方」
「私にもなれっかなー?」
 少女は目を輝かせた。そのまま腰に手をやって、笑顔が一転、沈む。
「私のポケモン、いつ戻ってくんの?」
「お前がもうちょい、落ち着いてくれたらな」
「ちぇ。ウィントもトアルもおんなじことばっかり」
 パフェの効能が切れてきたらしく、少女はトアルに手を掴まれたまま、ぴょんぴょん跳ねる。そんなだからだよ。
「そう言われても。お前にポケモン渡したら、どこに行くか分かったもんじゃないからさ」
 トアルの本音に、何故だか少女はにっこり笑った。
 こいつの名前も、早く決めなけりゃなあ。

 町外れまで出ると、飛び交う砂の量があきらかに増えた。
 それでも、このポケモンなら大丈夫だろう。
「ガブコ、出てきてくれ」
 久しぶりに外に出てきた相棒は、変わらず、赤に縁取られた羽をピンと伸ばしていた。大きな赤目のように見えるのは、目を守る赤色の半球レンズだ。砂漠に生きる彼女らの種族、フライゴンは、砂から身を守る方法を自らの進化の中に見出した。
 レンズに覆われた目は円な黒で、背中には鞍を着けている。ガブコは今日もトアルの指示を真摯に待っていた。
「なんだ。ガブリアスじゃなかった」
 がっかり、と少女は口に出す。ガブリアスはフライゴンと同じく地面・ドラゴンタイプで、砂漠に住むポケモンだ。パワーは強いが大食いだし気が荒い。一介の風乗りに御せる種族ではない。それを御せるやつをトアルは一人しか知らない。
「フカマルはたまにいるけど、育てるのは大変だからな」
「トアル、育てたことあんの?」
「村、遠いからな。ガブコに乗っけるぞ」
 見ただけだ、と答えかけて、トアルはやんわりと話題を逸らす。見たと言ってトレーナーに会わせろと言われても、彼女の所在も知らなければ、連絡を取る手段もない。話題に出して、アイオラの機嫌を損ねたくもなかった。
 少女の細い体を抱えて、鞍の上に乗せる。だいぶ軽い。コートを被せ、その上から安全ベルトを巻く。
「トアルはどうすんの?」
「歩いて行くよ」
 四〇キロ。歩けない距離でもない。きついが。
 フライゴンが少女を乗せて飛び立った。少女の慣れた体重のかけ方に、トアルはほうと感心した。ポケモンで飛ぶことに慣れている。初対面のフライゴンに物怖じしない。風乗りとして育てれば光るかもしれない。
「いや、ダメだな」
 トアルは自分の考えを打ち消すのに、自分の手を目の前でひらひらと振った。風乗りたちが集うハレの日に、自分がしたことは許されない。もう二度と、空なんて飛べやしない。
 脳裏に今日会った少女の、蒼穹色の目が浮かぶ。すると、急に分からなくなる。
 なあウィントさん、本当に、気にしなくていいのかよ?
 頭を抱えて座りこんだその足元から、鈍い振動が伝わった。顔を上げる。巨大な陸鮫が身軽に砂の上を移動してくる。最初の振動は接近をわざわざ知らせるためか。陸鮫は槍の穂先のような腕の爪を、砂埃の中で光らせる。どうやら、効果的に映える角度というのを知っているらしい。
「ガブリアスか」
 めったにないポケモンが、めったにないタイミングで現れるものだ。白い少女を村に送った後だというのは少々救いか。
「フーコ、ねむりごな」
 ガブリアスの爪が届かない安全圏を見計らって、使いこんだ方のボールを投げた。勝負は一瞬。粉を真正面から浴びたガブリアスは、そのままヘナヘナと膝をつく格好で固まった。こうなれば、暴力一番のドラゴンも怖くない。トアルは逃避の姿勢に移った。
「引きこもってても、腕は鈍ってませんのね」
 その背を、懐かしい声が引き止めた。
「カリーナか」
 ガブリアスの後ろから女性が姿を現した。色黒の肌に黒い髪だが、身にまとう神秘的な雰囲気は、父親とも妹とも異なっている。
「お久しぶりです、トアルさん」
「久しぶり。帰ってこないのか?」
 カリーナは神秘的な雰囲気を壊さないまま、首を横に振った。そして、口元にだけ笑みを作る。
「わたくしはもう、空賊ですから」

 カリーナという女性の神秘は、彼女の秘め事によるのかもしれない。
 妹のアイオラがトアルと共にバカ騒ぎをやって遊んでいる時間で、彼女はしょっちゅう、夢想しているように見えた。
 その夢想の中身を僅かながら知ったのは、カリーナが出奔した後だった。風乗りを正義と信じてやまないアイオラが、怒り狂って物に当たっていたのをよく覚えている。
「どうして空賊になったんだ?」
 昔も投げかけた問いには、昔と同じ答えが返ってきた。
「空賊でないとできないことをやりたかったから、ですわ」
 カリーナの決意は固い。だから家を出ていった。そして帰ってこなかった。
 堂々巡りだと思いつつも、トアルは問いかけるのをやめられなかった。
「ウィントさんもおれも、怒らないし、アイオラは、怒るだろうけど許してくれるだろ。帰ってこいよ」
 カリーナは残念そうに笑った。
「今日は頼みがあって参りました。あまり時間は取れませんの。白い少女のことで」
 トアルはウィントの言葉を思い出した。
「ウィントに引き取れって頼んだの、カリーナか」
「色々、厄介事がありましてね」
「空賊ってのは、ずいぶんあくどいことをやってるのか?」
 人身売買とか、児童買春とか。トアルは自分の質問に自分で推測の答えを返して、勝手にどもった。
 カリーナは肩をすくめた。
「そういう人もいる、とだけ。こちらの事情はさておき、彼女が村に行くことを所望したんですのよ」
「なんで?」
「それは、村に戻って周囲を見回したら分かるんじゃないかしら」
 トアルにはさっぱり意図が掴めなかった。闇夜に手を伸ばすように、次の質問を投げかける。
「あの子、何者なんだ?」
「それはわたくしも知りませんの」
 カリーナは首を傾げて、「直接彼女に尋ねてはいかがかしら? あの子はずいぶん利発ですし」と心底から微笑んだ。これは、自分の魅力を最大限に引き出す角度を知っている傾げ方だ。トアルは体の角度を変えて、カリーナと真っ向から向き合わないようにした。
 カリーナはそんなトアルを見て、唇に指を当てた。
「忠告はしましたから。では、ごきげんよう」
 ガブリアスが頭をもたげる。その場を辞しかけたカリーナを、手を伸ばして掴んだ。
「待てよ」
 カリーナが背を向けた姿勢から振り返り、横顔を見せる。泰然とした顔に、はじめて不快の色が浮かんだ。トアルは構わずに続けた。
「本気で顔も見せないつもりか? ウィントとは連絡とったんだろ。アイオラに、妹になんか言う事ないのかよ」
 カリーナが消えた夜、ウィントも風乗りの仕事で帰ってこなくて、トアルとアイオラは二人きりで過ごした。物に当たって怪我をしたアイオラの手に包帯を巻いたのはトアルだ。
 包帯が赤くにじんだ、その手をトアルは両手で支えた。割れたフォトフレームが散らばっていた。
「アイオラは、お前のこと尊敬してたんだぞ」
 姉は優秀な風乗りになるのだと信じていた。風乗りとしての才能の片鱗を見せていた姉は、才能はそのまま、敵対する空賊へと転身した。
 信じていなければ、家族写真の入ったフォトフレームを割るものか。
 カリーナの瞳に強く影が差した。掴んだ手を、カリーナは乱暴に振り払った。
「わたくしがどういう立場で何を為すか、それは妹に決められるものではありませんわ」
「でも、会うくらい」
「“会うくらい”なら、あなたも実家に顔を出せばいかが?」
 太いガブリアスの尾が、鋭い鞭となって大地に傷を付けた。
 カリーナのまっすぐな怒気が、トアルの胸に穴でも開けたようだった。

 カリーナは自分が怒っていることに気づくと、すぐさま笑みを取り繕った。まるで、子どもが縁日でかぶるおもちゃの面のような薄っぺらだった。
「失礼しました」
 頭を下げたカリーナが、今度こそ身を翻して走っていった。モンスターボールの開閉光が二度またたき、ガブリアスの代わりにフライゴンが現れる。彼女は風乗りだった。今は空賊だ。
「ごきげんよう」
 投げやりなトアルのあいさつは、多分、届いていない。
「実家、ね」
 ふわふわと、風に乗って体を寄せてきたフーコを撫でる。手の先に二つ、頭に一つ、合計三つの綿帽子を繰って、ワタッコのフーコは器用に目の高さを合わす。
「フーコはいいんだよ、気にしなくて」
 それでも気遣わしげなワタッコを、トアルは撫でてやるくらいしかできなかった。
「おれの実家のことは、今さらどうしようもないからな」
 実家がトアルを嫌いなのも、同じくらいトアルが実家を嫌いなのも、もう既に、修復不可能なところまで行っている。ただ、それと同じくらい、カリーナがアイオラのことを嫌っているとしたら、やるせない。
 トアルはワタッコをボールに入れて、町中へと戻った。ヒッチハイクできる自動車を探そう。もう、歩いて帰る気分にはなれなかった。

「それで、弁明は?」
 巨大な一枚岩に見守られた、辺境の村。
 そこへヒッチハイクで戻ったトアルは正座をしていた。トアルが故郷での伝統的な反省ポーズだと村に輸入してこの方、正座は村で一大地位を築いている。
 なぜか白い子も隣に来て正座した。
「膝の生育に悪いのでよしなさい」
「トアル」
「はい」
 図らずも、白い少女を膝に乗せた姿勢で、トアルは硬直した。見上げた空には正座したトアルを見下ろす怒りの同居人が。
 アイオラは何故、怒っているのでしょうか? 自問してみたが、ここ四年ほど情けない姿を見せ続け、家事全般に家計出納にと迷惑をかけ続けたトアルである。正直今まで怒りで爆発しなかったのが不思議なくらい、心当たりが多すぎる。
「そもそも、アタシが何に怒ってるか、分かるか?」
 トアルの首が勝手に回転を始める。いや違う、アイオラと目を合わせたくないんじゃなくて、オジギソウがおじぎする生理現象みたいな。
「心当たりは?」
「ちょっと、年単位でありすぎますね」
 思わず年下に敬語になった。「ほほう」とアイオラの目が吊り上がった。
「年単位でアタシに家事もおっつけてのんべんだらりとしてたから、どれだけ神経がず太いのかと思ってたわ。トアルも反省ってするんだな」
 これに関しては逃げ隠れもできずトアルが原因である。カリーナに実家のことを言われた時よりもきつい。
「それに関しては反省してますゆえ」
「ゆえ?」
「家事ぐらいはしようかなと」
「ぐらい?」
「すみません」
 潔く頭を下げた。
 どのみち、子どもを引き取った以上、今までと同じくのんべんだらりとはいかない。
「じゃあ、家事“ぐらい”はトアルがやってくれる、ってことで」
 終わり、とアイオラが手を打った。「ぐらい」の強調が気になるが、トアルが蒔いた種だ。
 これから、やっていくしかない。子どももいるし。
「ほら、立て、トアル」
「おう、ありがとな」
 差し出された手を取り、立ち上がれなかった。
 再び地面に戻ったトアルを、アイオラは不思議そうに見て、それから「ああ」と納得して手を打った。
「足、しびれたんだな」
 そこからは当然のごとく、足をつつかれまくった。少女も参戦して、二人がかりの猛攻に“ひんし”の白旗を上げたトアルに、更なる冷酷な審判が下される。
「で、トアル。水はどうした?」

 水は生活必需品である。人一人に対しても大量に必要になる水だが、この村では雨が降らなくて、水は慢性的に不足している。かれこれ四年ほどだ。
 もちろん不足を見越して早めに買い出しに行くが、それにしたって向こう半日は町にいたのに水を買わなかったって、手ぶらのトアルを見た瞬間怒るわけである。
「このミスを挽回するためにも、今から急いで町に行かなきゃな」
「トアルはいつまでフライゴンと睨めっこしてんの?」
 問題はそこだ。別にトアルはフライゴンとの睨めっこが楽しいわけではない。ガブコもフーコも睨めっこ好きだけど。
「その、乗って行かなくちゃな、と思ってな」
 歩きでは到底、間に合わない。自動車が日に二度も村を通りかかるような幸運もない。となれば、トアルはフライゴンに乗って、空路を飛ばしていかねばならない。そのためのフライトジャケットもゴーグルも準備した。だが。
「空飛ぶのが怖いのか?」
「いいや。うーん、まあ、そうかもしれない」
 あの祭りの日以来、トアルはずっと空を飛ぶことを避けてきた。
 行く当てのなかったトアルを拾い、風乗りとして仕込んでくれたウィントを落とした、せめてもの償いのつもりだった。
 でも、そのウィントが「気にするな」と言う。アイオラは「ひとっ飛びして水を買いに行け」と怒る。
「もう飛ぶの、やめとこうって思ってたんだけどな」
 少女がちょろちょろ、フライゴンの周りを回る。あまりにせわしないので抱き上げた。
「飛ばねーの?」
「そのつもり、してたんだがなあ」
 トアルの胸に顎をつけて、少女が蒼穹色の目をつまらなさそうに向ける。
「トアルが飛ばねーんならさ、私がやる。私のポケモン、いつ返ってくる?」
 蒼穹色が曇りの色合いを見せた。その曇りに、トアルはふと考えこんだ。
 カリーナから、この子は裏社会にいたらしいことは聞いている。ポケモンを使うソルジャーとして育てられていたのかもしれないが、自分のポケモンと離れるって寂しいことだ。
 ウィントと出会う前、トアルにはフーコがいた。実家から手切れ金同然に渡されたポケモンだったけれど、フーコはトアルによく懐き、支えてくれた。あの頃の自分からフーコを取り上げたら、間違いなく潰れてしまうだろう。そう言えるほどに。
 トアルは子どもの白い髪を梳いた。
「明日にでもウィントに電話して聞いてみる。ポケモン預かってるのはウィントだよな?」
 子どもはコクリと頷いた。よかった、カリーナじゃなくて。彼女と連絡を取れと言われたら、アイオラの不興と合わせてトアルは“ひんし”になる。
「じゃあさ、ポケモン戻ってくるまで、フライゴン乗りたい」
 自分のポケモンに会えるとなって、嬉しくなったのだろう。急速充電で元気を取り戻した子どもが、今度はトアルの肩をバンバン叩いた。
 トアルは肩への猛攻を抑えようと片手で防御する。元気になったのは嬉しいけども。
「今はダメ」
「なんで? さっきやったろ?」
「ゴーグルがない」
 帰宅と同時のアイオラの怒りには、それも含まれていた。十分な装備もなく子どもを飛ばすとは言語道断。おれもアイオラも、ガキの遊びで鞍なしのフライゴンに乗ってたのに、とは口答えしなかった。
「いいじゃんか、ゴーグルぐらい」
 とふてくされる子どもから察するに、この子も鞍を着けずに乗っていたクチのようだ。
「水のついでに買ってくるよ」
 思いつきで、トアルは口にした。
 まるで水を得た魚のように、子どもが飛び上がった。瞳の蒼穹色がキラキラと輝いた。
 あ、こいつ、笑ったな。
「ほんと?」
「あ、うん。ほんとほんと」
 やっちゃった。飛び跳ねて喜ぶ少女を見て、やっぱり延期とも言えない。
「子どものためだ」とトアルは自分に言い聞かせて、フライゴンの手綱を取った。

 赤に縁取られた菱型の羽が、振動を始める。
 やがて、振動が高速になり、体が浮くと、フライゴンの足がそっと大地を押す。滑るようにして、トアルとフライゴンは空中に飛び出した。
 村がみるみるうちに小さくなり、赤い大地に点在するブッシュの一つに紛れる。村を見守る巨大な一枚岩が帰りの道標だ。
 神がおはすと言われる、一枚岩。エアーズロックならぬ“エアロック”と村人は呼んでいる。
「白い子が村に来たがってた理由って、エアロックなのか?」
 分からない、と言う風に鳴いたフライゴンに自分も首を振り、一枚岩と逆の方向を示す。フライゴンは指示に従って高度を上げた。
 年中晴れでも、高度が上がると寒さが勝ってくる。肌を切るような風に震えながらも、トアルはフライトジャケットの中の熱い血液を感じていた。
 フライゴンの触覚が、トアルの左右に分かれて風に流れる。
 遮るもののない、青一色の空だった。雲さえない。
「おれを止めてたのは、おれだったかな」
 フライゴンが顔を傾げた。赤いレンズの向こうの目は、普段通り、円らで真面目な色合いを見せていた。
「待たせてたな、ガブコ、ごめん」
 フライゴンが鳴き声を上げる。風に流れていくその声は、トアルを許してくれている。そう思うのは、トレーナーのわがままか。
「ありがとな」
 ポケモンの返事は風に飛ばされる。空の上で風がごうごう吹く中、空中乗騎用のインカムはあるものの、凍える高度でのんびり会話は楽しめない。
 トアルはフライゴンの背を軽く叩いた。なら、別の会話を楽しめばいい。風乗りには、風乗りのやり方がある。
「飛ばそう。あの子も待ってる」
 トアルの言葉に触覚を揺らし、フライゴンが羽の速度を上げた。
 一定の振動数を越えた羽が、リィンと高い音を奏で始める。
 フライゴンは砂漠の精霊とも呼ばれている。その由縁。笛のような音階を旅の道連れに、トアルとガブコは隣町へと向かった。

 水は箱買いしてガブコに運んでもらい、その間に子ども用ゴーグルの購入を済ませ、ウィントに白い子のポケモンを返してもらえるよう、頼んでおいた。
 四年分のぐうたらが信じられないほど、トアルは働いた、と自分で思った。
 しかし、ここで満足してぐうたらに戻ってはいけない。アイオラに仰せつかった家事もやらねばならないのだ。なんてったって子どもがいる。アイオラはなんでも自分でできるが、あの子はトアルがやってやらねば腹を空かすのだ。
 朝食に並べられた目玉焼きを見て、アイオラが口の端を「くっ」と上げた。焦げていた。
 なにくそ、とふんばり、毎朝三人分の目玉焼きを焼いた。アイオラがトアルの作ったメシを食べ、村役場に働きに出た後で、トアルは掃除にかかる。
 三日もそうやって続けていれば、体も慣れてくる。慣れたら意外といける、と思うと同時に、こんなことを毎日アイオラにやらせていたのか、と情けない気持ちになった。
「よしよし、やってるな、トアル」
 帰ってきたアイオラに肘で突かれる。四日目は突かれなかった。その日、帰宅したアイオラは一枚のカードをトアルの前に滑らせた。
 そのカードには名前がない。
「あの子のトレーナーカードだ。役場で働いてる特権で、ちょっと早めに出してもらった」
「ありがとな」
 アイオラは「子どものためだからな」と言って頬を掻いた。そして笑みを消し、真面目な顔になった。
「今回はどうしても必要になるから、融通をきかせて、トアルの娘で作った。
 でも、さっさと名前を決めて、役場に提出してよ。祭りが終わって、学校が始まるまでには」
 トアルは素直に謝った。
 祭りも近い。トアルは名前の候補をいくつか紙に書きだした。
 トアルにも郷愁はある。娘の名前は和風にしようとそれだけは決めて、しかしそれから先に進まない。かわいい女の子に似合う名前はたくさんあるからだ。
 ツバサがいいか。あの年でもうポケモンで空を飛べるみたいだし。でも風乗りになるのを強制してるように思われたら嫌だな、とカリーナの顔を思い浮かべる。アスカはどうだ。飛ぶ鳥の意味でも、明日の意味でもとれて、いいかもしれない。しかし、白い子はアスカっていうよりツバサって雰囲気だ。トアルは辞書を引く。
 結局決まらないまま、その日も終わった。

 とうとう、この日がやってきた。
 少女はいつもより落ち着いていたが、はしゃいでいた。体は揺らしているが、椅子には座っている。ここ数日というもの、少女は暇があればトアルの髪の毛をむしり、トアルに相手にされなければ探検と称して外に飛び出して迷子になっていた。
 この子は賢いから、ちゃんと地理を教えたら迷子にならないだろう、と思うのは親の欲目だろうか。だとしても心配なので、トアルが家事をする間は、少女に髪の毛をむしらせていた。
 その子が大人しく椅子に座っている。
「大丈夫か」
「ん」
「メシ食うか」
「ん」
 万事がこの調子だ。
 朝の準備でアイオラが出入りする度にそわそわしているし、呼び鈴がなれば表に出ていく。大抵はトアルへのお使いのお願いだが。
 呼び鈴で一つ、気づいたことがあった。
 呼び鈴が鳴って、少女がとことこ表に出ていく。数秒経つと、困った顔をして戻ってくる。その後ろから近所のばーさん、時々じーさんが顔をのぞかせ「シロちゃんは今日もかわいいねえ」と言う。少女はトアルの後ろに隠れる。
 存外、少女は人見知りであった。
「いや、お前、おれと会った時殴りかかってきたじゃん」
 それを知った時、トアルは言った。
「そん時はそん時だよ」と少女は言う。そしてトアルをポカスカ殴る。やめなさい、とトアルは諭す。
「トアルくん、シロちゃんが来てから元気になってよかった」
 近所のばーさんは微笑みながら、がっつり黒に染まった買い物メモを置いていく。油断も隙もなければ容赦もない買い物量だが、元引きこもりとしてはここらで顔を売っとかねばならない。前はアイオラがやっていたことでもあるし。
 トアルが買い物メモから重量を手計算して、運送料を出す。その手元を見つめながら、シロがぼやいた。
「シロって呼ばれんの、ポケモンみたいでやだー」
「あ、ごめん」
 いまだに少女の名前は決まっていない。
 彼女を見かけた村人がシロと呼び始め、なし崩し的にシロちゃんが名前みたいになっている。村どころか隣町にもない白髪だから、そうなるのも必然だ。しかし、彼女はそう呼ばれるたびにむくれている。
「トアル」
「ごめん、ちゃんと名前考えるからさ」
 考えていないわけではない。トアルの娘なら名字はマイタカになるから、マイタカ・ツバサとマイタカ・アスカならどっちがいいかと考えだして、ヒカリもいいなあと悩み始め。
 呼び鈴が鳴った。
 トアルは計算を中座し、立ち上がる。いいかげん、村人から逃げ惑うのに疲れたシロが、後ろにちょこちょこついてくる。テレビで見たポッチャマのようだ。
「はい」
 トアルはドアを開ける。荷物を受けとって、少女に笑いかけた。
「ほら、来たぞ。お前のポケモン」

 ボールは三つあった。
「マスターボールか、これ?」
 珍しい装飾の紫ボールを、シロはさっさと腰のベルトにくっつけた。
「これは使ってないやつ」
「そうか」
 口をつきかけた追求の言葉をかき消す。どんなポケモンも必ずゲットできる、という噂のマスターボール、未使用。どこで手に入れた? と聞いても、懸賞で当たったとはぐらかされるだけだろう。裏社会にいた子が懸賞できるとも思えないが。
 でも今は、きっと聞いても答えてくれない。今はまだ。
 そんなことはいいや、とトアルは思った。
「この二匹が、お前のポケモン?」
「そ」
 他愛ないやりとりに、少女が満面の笑みを浮かべる。自慢気。そう、自慢気だ。
「見せてくれるか?」
 そう尋ねると、待ってましたとばかり、少女は外に飛び出した。

「出てこい、ボーマンダ、オオタチ!」
 少女が投げたモンスターボールからは、前口上通りのポケモンが出てくる。
 赤い扇形の翼が特徴的な、気の荒いドラゴン、ボーマンダ。長い胴に短い手足、茶色とクリーム色のしましま模様がかわいいオオタチ。ボーマンダの空色の背中には鞍が備えられ、口元からは手綱が下がっていた。
 少女はボーマンダに駆け寄ると、口輪を外す。
「元気してたか?」
 低い唸り声を上げて、ボーマンダが少女に頭を垂れる。
「そーかそーか、ボールの中だとあんま変わんないか」
 少女が頭を撫でる。大きさの差もあって、まるで壁をさすってるみたいだ。ボーマンダは気持ちよさそうに目を細める。
 トアルは感心した。ボーマンダはガブリアスと同じくらいか、それ以上に育てにくいドラゴンだと聞いている。凶暴でプライドが高く、生半可なトレーナーでは指示に従わせることはおろか、食餌さえ不可能だと言われる。裏社会で仕込まれたのだろうが、だとしても万人が万人、従えられるポケモン種ではない。
 いよいよ、彼女を風乗りとして育てたい、と思う。だがしかし、子どもの道をそれ一つに狭めてしまってはならない、とも思う。カリーナが出ていった後、ウィントの教育方針が変わったことに気づかなかったトアルでもない。
「なあ、乗っていいか?」
 少女の声で、トアルは考え事から現実に戻った。いつの間にやら、少女はごついジャケットを着こみ、新しいゴーグルを装着して、空を飛ぶ気まんまんになっている。
「いいよ」
 いちいち許可を取りに来るなんて、とトアルは嬉しくなった。あっちへ飛び出したりこっちへ飛び出したり、自動車道に飛び出したりしていた頃が、ずいぶん昔のようだ。
 だがトアルは、軽率に許可を与えた後のことを考えていなかった。
 少女の蒼穹色の目が、夜の前触れのように冷たく凍る。それを隠すようにゴーグルを装着すると、白の少女は手綱を取って、ボーマンダの背中に乗った。
 スケボーでするような立ち乗りのまま、少女は手綱を鳴らし、一直線に飛び出した。
 ――巨大な一枚岩、エアロックの方角へ。
「ちょっと待て!」
 そう叫ぶより早く、少女は視界外へ抜けている。多分、聞いても止まる気はない。
「ガブコ、フーコ」
 トアルはフライゴンとワタッコの二匹を出し、フライゴンの鞍にまたがった。ゴーグルはないが、緊急事態だ。
「飛ばせ、ガブコ。あの子に追いつく。エアロックの方角だ」
 フライゴンはそれで事態を察したようだ。すぐさま羽を最高速度に乗せると、村の上空をつっきった。フライゴンの羽が鳴らす偽笛の音は、可聴域を超えて消えた。

 エアロックと村の間で、赤い翼がはためいた。荒々しい、血のような赤色。
「止まれ、戻ってこい!」
 少女の握る手綱が揺れる。
「シロ!」
 少女は振り向き、しかし何事もなかったかのようにボーマンダを急かした。
 トアルは歯噛みする。少女を呼び止める名がないことに。
 少女を名付けることから逃げていた、自分の過失だ。トアルは名前を付けて、その名前を奪われるのが、怖かった。名前を変えることのないよう、最高で唯一のものを与えてやりたかった。それでこのザマだ。
「仕方ない。フーコ、“にほんばれ”から“わたほうし”。ガブコは“かぜおこし”を待機」
 トアルは並んで飛ぶワタッコに声をかけた。ボーマンダは厄介だが、こちらは元とはいえ風乗り。空を飛ぶ相手には一日の長がある。
 それまでも赤い大地にまんべんなく降り注いでいた太陽の光が、レンズで集めたかのように強くなった。その光を浴びて特性“ようりょくそ”を発動させたワタッコが、増長した素早さでもってボーマンダの横に並ぶ。“にほんばれ”の光は数秒と保たないが、構わず白い綿を振りまいた。
 ボーマンダのスピードががくりと落ちる。その背中から少女が滑り落ちる。フライゴンが“かぜおこし”の予備動作に入る。
 落ちながら少女が叫んだ。
「オオタチ、“ふいうち”!」
 その瞬間、少女は命より勝利を優先した。
 地面を駆けていたオオタチが伸び上がる。その体はフライゴンの目前にあって、“かぜおこし”の発動を阻害するかに見えた。
 だが。
「“いかりのこな”」
 オオタチの目がフライゴンから、明後日の方向に引き寄せられる。それと同時に、溜めをしていた“ふいうち”の悪エネルギーが霧散した。視線の先のワタッコにオオタチはキュウと唸る。
 フライゴンは風を起こして少女を受け止めた。一旦フライゴンの腕に抱かれた少女を、地上に降りてトアルが受け止めた。
 少女は憔悴していた。
「理由を話すよ。歩けば見えてくる」
 トアルが指した方向はエアロックだった。少女は頷いた。

 巨大な一枚岩は、近づいてその威容を改める。
 それは赤い大地と継ぎ目なく繋がっている。地面にあって空とも溶け合っているような、奇妙な倒錯感に包まれる。
「エアロックは聖地だ」
 かつて先住民がそうしていたように、現代の村人も、エアロックを尋常ならざるものとして祭っている。その形式は変化しているだろうけど。
「でも、人の手に負えないものとしての意識は一緒だ。エアロックは立ち入っちゃいけないんだよ。祭りの時以外はね」
 エアロックに十分近づいた所で、トアルは大地と一枚岩の境目を指さした。それから、敵意のないことを知らせるために手を上げる。
「ああやって、普段は人が入らないように守ってるんだよ。安易に近づくと撃ち落とされる」
 番人は手を振り返した。番人の隣にいるイワパレスもハサミを上げた。鈍重なインテリアのように鎮座しているイワパレスたちだが、不埒にエアロックに侵入する輩があれば、それを撃ち落とす冷徹な砲台となるのだ。
 それ以外なら、気のいいトレーナーとポケモンの組み合わせだ。
「子どもにエアロックを見せに来たんだ」
「そうか、じっくり見ていけ」
 トアルは少女の背を撫でて、エアロックを回った。赤い一枚岩は周囲のブッシュの配置を少しずつ変えながら、自身は少しずつ角度を変える。そんな風に見える。
「祭りでは村からここまで、競争するんだ。空を飛べるポケモンに乗ってね。それで、一番になったやつだけが、エアロックに登り、伝説のポケモンへの目通りを許されるんだ」
「祭りで一番になれば、そのポケモンに会える?」
 少女の蒼穹色の目は、思い詰めたような色を帯びていた。今にも泣き出しそうな空に、トアルはただ、エアロックの祭りを話す。
「それ以外では、レックウザに会えないよ」
 少女がしゃがみこんだ。やっぱりか、とトアルはため息をついた。観光を中座して、フライゴンを呼んだ。

「……妹」
 少女が自分のことを話したのは、家に戻ってからだった。
 アイオラは帰っていない。今はトアルと二人きりだ。
「いたんだ。でも、今、どこにいるか」
 少女は膝を抱いた。白い前髪に隠れた目から、どうしようもなく涙がこぼれていた。
「レックウザ、って伝説のポケモンを捕まえてきたら、会わせてくれるって」
 トアルは少女にタオルを押しつけた。白く細い手が、トアルの裾をぎゅっと握りしめた。トアルは少女の髪を撫でると、彼女を膝に乗せて黙った。しばらく泣かせておこう。
 未使用のマスターボールを見た時からつけていた予想と、少女の境遇は、だいたい同じだった。少女の腕前を見る限り、レックウザの捕獲を命じた人間にとって本命なのだと思う。
“あくどいことをする、そういう人もいる”か。確かにあくどい。年の離れた弟しかいない、しかも弟が生まれると同時に家を追い出されたトアルには、兄弟の間の情は想像でしか分からないけれど。
 おそらく、“あくどい人”の元から、カリーナは死兵になっていたこの子を取りあげた。そしてウィントに、ウィントはトアルに、託したのだろう。
 だとすると、妹の所在は……
「分かってるよ」
 蚊の鳴くような声で呟いた。トアルの腕の中で、少女はトアルにもたれもせずに座っていた。
「本当は分かってるんだ」
 少女はもう一度言った。
「妹にはもう会えないって。会えるぐらい近くにいるなら、ガブリアスのお姉さんが探して、もう、会ってる」
 でも、どうしたらいいの、と少女は泣いた。

 今日の夜も晴れ。
 泣き疲れた少女をベッドに寝かし、トアルは夜風に涼んでいた。砂まみれでも、風は風。夜は特に涼しい。
「ああいうとこは年相応だな」
 隣のワタッコがコクコク、頷いた。
「しかし、レックウザなんか、どうするか」
 捕獲して気が済むなら、そうさせてやりたい。だが、村の人間にとって、レックウザは神の一柱だ。それをゲットなんかしたら、村八分にあう。レックウザのボールも取り上げられるのがオチだ。
 時間が解決してくれればいいけど。
 トアルは彼女が眠っている部屋の窓を見上げた。妹のことがなければ、悩まずに済んだと思う。なまじっか、引き裂かれた姉妹の片方が今もそれを引きずっているのを、間近でずっと見ているから。
 偽笛の音がした。
 見上げると、月明かりに見知ったフライゴンと人間の姿が見えた。
「アイオラ、今日は遅かったな」
 ワタッコを連れて表に回る。アイオラの姿は既になかった。
 フライゴンに乗っていたということは、隣町まで出かける用事があったのだろう。疲れてさっさと休みたいに違いない。夜食の準備をしよう。ワタッコをボールに戻して、トアルも家の中に入った。
 悲鳴が聞こえた。
 トアルは一段飛びで二階に上がった。四つある寝室の内、一つのドアが開き、中から明かりが漏れていた。トアルは呼ぶ名がないことにイラつきつつ、部屋に飛びこんだ。
「どうした!」
 白い子どもの両腕を、アイオラの黒い手ががっちりと掴んでいた。子どもがトアルを見る。いつもは生意気な蒼穹色が、恐怖に揺れていた。
「何やってんだ、アイオラ。離せ」
 怒鳴りつけたいところを、トアルは抑えた。これ以上、子どもを恐がらせたくない。アイオラの手首を叩く。けれど、いっかな彼女は子どもを離さなかった。それどころか、いっそう締めつけているようにさえ思えた。
「離せ」
 低い声で言って、今度は強めに手首を叩いた。それでやっと手が離れる。少女はトアルの背中の後ろに隠れた。
 アイオラは何の感情もなく自分の手を見ていたが、やがて糸が切れたように、パタリと手を下ろした。
「会ったのか」
 アイオラの声は掠れていた。
「今日、父さんに仕事ついでで会いに行った」
 手の皮が破れそうなほど、彼女はこぶしを握りしめた。
「カリーナ姉さんに会ってたのか。お前たち三人とも……」
「この子は悪くないだろ」
 子どもにだけは飛び火させたくなかった。もう手遅れだが、それでも勢いを増しそうな火の手からは遠くにやりたかった。
 それが起爆点だった。
「誰が望んで子どもを連れてこいって言ったんだ! いっつもそうだ! アタシはカリーナ姉さんだけいればいいと思ったのに、ウィントもトアルもカリーナ姉さんも、みんな自分勝手だ!」
 アイオラが拳をトアルの胸に叩きつけた。その手をトアルが捕まえる前に、引っこめられる。
 トアルを殴ったその手で、アイオラは涙を拭いた。
「アタシのことなんて、みんな、どうでもいいんでしょ!」
 捨て台詞を投げて、アイオラは家を出ていった。
「私の妹だって、ほっとかれてるよ!」
 白い子が再び泣き出した。

 子どもが泣き止んだ頃には、いい夜更けになっていた。
 ごそごそ、トアルのベッドに入りこんできた子どもに腕枕をした。
「なあ、トアル」
「なんだ?」
 子どもはトアルの腕の上で、しきりに転がっていた。頭の座りが悪いようだ。
 白い髪が、サラサラと気まぐれに流れる。彼女の妹も、お揃いの髪の色に目の色なんだろうか。中身はここまでおてんばじゃないといいなあ。
「カリーナって、アイオラのお姉ちゃんだったの?」
「今もそうだよ」
「そう」
 子どもは寂しそうに目を閉じた。
「近くにいるのに……」
 やがて子どもは寝息をたて始めた。
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