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第1話 旅立ち
 空を、飛びたい。
 眼前に広がる青、ぽかりと浮かぶ白――



 大きな窓から見える町は、いつものように静かで、ふとすると人っ子ひとりいないみたいに感じる。
 ここは寂しい町だと、タンエイタウンを訪れた旅人たちは、皆口を揃えてそう言う。確かに、小さな島の東端にあって、その先に切り立った崖と、野生のキャモメたちの姿と、広い海があるだけの町は、たくさんの珍かな景色を見てきた旅人たちにとっては、何もなくて寂しいのかもしれない。
 けれど、リッカはこの町が好きだ。リッカはこの町が好きで、アルはリッカが大好きだから、アルがこの町を出て行くことはないだろう。
 大きなガラス窓から外を見つめる小さなイーブイは、そう思っていた。

「アル」

 名前を呼ばれて、振り返る。声の主は今日も笑っている。

「空が綺麗だね」

 言われて、アルは空を見上げる。今日は雲が少ないや、とアルは思った。
 普通の人は青空が綺麗だと言うらしいのだけれど、リッカは雲も含めて空が綺麗だと言う。好きな色は、空色だけれど。
「綿雲もいいけど。ね、あの巻雲、綺麗」
 彼女が腕を高く上げる。アルとお揃いだと言われた、栗色の髪が揺れる。彼女が指差す先を、小さなイーブイは必死に探る。けれど、
「分からないよ」
 そう音を上げてしまう。
「アルもそう思う?」
 イーブイの言葉は少女には通じなくて、少女は勘違いしたまま、アルを膝の上に抱き上げる。

 ポケモンの言葉は人間には通じない。だから、今みたいなやり取りをすることも、多い。
 けれど、心の真ん中の大事な部分は通じ合っている気がする。

 今も。

「なあリッカ。お腹へった」
 アルがそう言えば、
「お腹すいたね、アル」
 リッカが笑ってそう答える。
「ご飯よ」丁度いいタイミングで養母の声がした。
「行こうか、アル」
 少女は腰掛けていたベッドから降りると、空色のスリッパを履き、空色のドアを開けてキッチンへ向かう。その後を、アルが追いかけていく。


 ご飯の後はお医者さんが来るとかで、アルは家の外に追い出された。
 診察の時にポケモンがいてはいけないらしい。
 アルにはよく分からなかったが、そういう決まりだったし、昔からそうなっていたので、青い髪のお医者さんに挨拶してから、アルは今日も外へ出た。

 外へ出ても、することはない。数える程しか家がない、静かなタンエイの土の道を、一匹でぶらぶら歩くだけ。
 歩く内に、アルのお気に入りの場所、崖の近くで風が強いけれど、開けていて空がよく見える場所に着くから、そこで丸くなって、空を見上げながら、昼寝をする。

 空の真上に、刷毛で撫でたような細い雲が見えた。あ、巻雲だ、とアルは思った。
 アルがリッカの所に来た時、アルは人間の言葉がほとんど分からなかった。もちろん、雲の名前なんか知らなかった。
 でもいつの間にか、リッカと一緒に空を眺める内に、だいぶん分かるようになっていた。

 アルはうとうとしながら、空色の空を見上げる。空を浮かぶ雲を見ている。


 強い風に頬を叩かれて、目が覚めた。少し眠ったらしい。高い所にある雲がほんの少し増えていた。日は丁度いい具合に傾いている。アルは立ち上がると、一直線に家に帰った。
 大きな人間用扉に取り付けられた、アルの為の小さな出入口をくぐる。お医者さんはもう帰ったようで、玄関先にそれらしい靴はない。
 けれど、医者が来たことを示すように、消毒液のきつい嫌な匂いが残っていた。

「アル」
 消毒液の匂いの元はリッカだった。

「アル」ともう一度イーブイの名前を呼んで、少女はイーブイをぎゅっと抱き締めた。
 アルの鼻先に、少女の左の二の腕に貼り付いた、四角形のガーゼが見えた。そこから強い消毒液の匂いがしていた。
「苦しいよ、リッカ」
 アルはそう言ったけれど、少女には通じない。
 リッカはアルを強く抱き締めたまま、自室まで走っていって、空色の扉を閉めた。

 そして、ベッドに膝から飛び乗ると、アルを枕の上に放り投げ、空色のカーテンを勢いよく引いて、大きな窓をすっかり覆い隠してしまった。カーテンが波立った水面みたいに揺れた。その上、部屋の照明を落としてしまって、カーテンが空色なのかどうかも、何も見えなくなった。
 騒がしい衣擦れの音がして、柔らかい弱い風が顔を触った。そして、ピタリと静かになった。部屋の空気から布で隔てられた向こうに、熱の塊があるのを感じる。
「リッカ、どうしたんだ? おやつ、食べないのか?」
 アルは熱塊のある方向へ顔を向ける。いつもはおやつの時間になると、真っ先に飛んで行くのに。暇があれば大きな窓から、大好きな空を見上げるのに。
 アルは枕の上から立ち上がると、右の前足を布団のある辺りに伸ばした。足の指先が、薄い布に触れる。その向こうに、リッカがいるのを感じる。
「リッカ?」
 布を押し上げて、中に入り込む。リッカがいた。うつ伏せになっていた。
「どうした、リッカ? リッカ……」

 小さなイーブイは少女の柔らかな髪を突ついて、長いこと少女の名前を呼び続けていた。けれど、やがて呼び疲れて、そのまま眠ってしまった。
 リッカはアルの体にそっと触れて、その小さな背中が呼吸に合わせて上下するのを感じ取るように、息を潜めていた。雨雲がそっとタンエイの町に忍び寄ってきて、呼吸の音も消せないぐらい、やわい雨を降らせ始めた。しとしと降る長雨だった。
 そして、彼女も眠り始めた。



 その日から、何かが変わった。
 リッカはよく、養父母に「ありがとう」と言うようになった。今までもリッカはこまめにお礼を言っていたが、回数が増えた。
 養父母は、彼女に欲しい物はないかと、よく聞くようになった。最近流行りのバンドのアルバムでもどうか。面白そうな漫画や小説でも、リッカが欲しければ何でも。ご飯の度に、話題にする。
 けれど、その話になると、いつもリッカは首を振って、欲しい物はないよ、いいよ、ご飯美味しかった、ありがとう、そう言って席を立つのだ。

 そして、部屋に戻り、いつものようにベッドに横になって、空色のカーテンを開けて、時々上半身だけ起こして、大きな窓から空を見上げる。

「ねえ、アル。今日も空が綺麗だよ」

 大きな窓から外を見ながら、あれはなになに雲、あれは雨を降らせる雲だとアルに解説してみせる。
 アルは黙ってそれを聞き、雲の名前をひとつでも多く覚えようとする。


 一段と雲の多い日だった。その日も、晩ご飯の後、リッカとアルはベッドに座って空を眺めていた。
 リッカが空一面の雲の名前を言い終わったところで、窓の端からまた別の雲が顔を覗かせる。ずっとずっと、終わらないのではないかと思うくらいたくさんの雲の名前を言い終えたところで、リッカはアルを抱き上げた。
「空って、綺麗だね」
 リッカはそこで言葉を切った。

 綿を千切ったような薄い雲が、夜空に紺藍の濃淡を付けていた。リッカが両手の平を窓に当て、外を見る。ガラス窓は触れるとそれなりに冷たいけれど、驚いて手を引っ込める程ではない。吐息がガラス窓を丸く白に染めた。リッカが目を細める。

「私の名前って“雪”の意味があるんだって。雪と雲って従姉妹みたい。似てる」
 リッカは、はあ、と息を窓に当てた。窓はさっきよりも広く白に染まった、雲みたいに。
「私、」
 言いかけて、リッカは口をつぐむ。束の間、窓から目を離して、自分の部屋の中を見回した。
 リッカの部屋には、空色がたくさんある。
 空色の時計、空色のラジオ、空色の表紙の本、空色のスカーフ。壁紙は空色じゃないけれど、天井は空色だ。
 リッカは足元に転がっていた空色のクッションを拾い上げると、ぎゅっと胸に抱き締めた。そして、アルと目を合わせた。

「アル、私ね、……なんだか、雲って小さいのも大きいのも、全部空にあって。小さくて、雨を降らしたりとか、陽の光を遮ったりとか、何もしない雲も空にあって、いていいんだって思えるの」

 甘栗みたいな髪を揺らしながら、リッカはにっこり笑って、ベッドから足を降ろした。そして、サイドボードに手を伸ばして、そこに置いてあった物を取り上げた。
 空色のゴーグル。

 ゴーグルを首に掛けながら、リッカは、
「空を飛んでみたい」
 と呟いた。

 養父に頼めばいいのに。アルは一瞬だけそう思って、すぐにその考えを消した。
 リッカには頼めない訳があるのだ。
 養父にお願いすれば、彼は地元のポケモンレンジャーにでも頼んで、リッカを乗せて空を飛べるようなポケモンを連れてきてくれるだろう。

「ねえ、アル。もし旅に出られたら、一緒に空を飛んでくれるポケモン、探しに行けるのにね」
 でも、お願いでは駄目なのだ。
 大事な願い事だからこそ、養父母には頼めないのだ。

 大事な願い事だから。

「旅に出ればいいよ。そんでもって、一緒に空、飛ぼう。その願い、オレが叶えるよ」
 アルは言った。出来たら、アルがリッカの願いを叶えたい。アルがリッカを背に乗せて飛びたい。そんな期待を込めて、アルはリッカを見た。リッカはただ笑っただけだった。

 リッカはクッションをベッドの上に置くと、部屋の端まで行ってクローゼットの扉を開いた。旅人に譲ってもらったり、雑誌から切り抜いたりした雲の写真が何枚も扉に貼られている。彼女は目の高さ、一番目立つ所に貼り付けられたモーニング・グローリーの写真を、白い指先で愛おしそうに撫で、そして、一番右端のハンガーに掛けられた空色のスカーフを手に取って、扉を閉じた。
 ベッドの端、アルの隣に腰掛けると、スカーフを広げてから、角の部分を摘まんで目の高さまで持ち上げた。
 そして、スカーフの真ん中ををきゅっと握って、

「アル」

 イーブイを膝の上に乗せて、空色のスカーフをその首元に結んだ。余った部分を後ろに流し、前に回った角を引っ張って形を整える。
「うん、これでいいかな」
 と言うと、リッカはアルを胸に抱いて、部屋を出た。
 アルは驚いたけれど、じっとしていた。
 これから、旅に出るんだと思った。
 リッカと一緒に。リッカの傍で。

 リッカは静かに廊下を歩いていた。けれど、いくら足音を忍ばせても、空色のスリッパが立てるペタペタという軽い音は消しようがなかった。
 タンエイタウンの住人の夜は早い。養父母もすっかり寝入ってしまったのか、起きる気配はなかった。静けさを溶かし込んだようなタンエイの夜の闇の中で、動くものはリッカとアルしかいなかった。
 リッカは玄関で靴を履き、音を立てないように扉を開くと、一歩、外の世界に歩み出た。途端、冷たい風が吹いて、リッカとアルの顔を冷気のマスクで覆った。
 冬が近付くタンエイの夜は、夏には多分にあったはずの熱を失くし始めていた。
「ちょっと寒いね、アル」
 リッカはアルを地面に降ろすと、口を手で覆って、二、三度、軽いくしゃみをした。
 心配そうに顔を見上げたアルに向かって微笑むと、リッカは「行って」と声を出した。

「行って」?
 驚いて立ちすくむアルに、リッカはもう一度「行って」と言った。
 アルはリッカの言葉が理解出来ず、その場に立ち止まった。

 リッカはしゃがみ込んで、アルに目線を合わせた。手を伸ばして、アルの短く柔らかい毛を愛おしむように撫でると、やがて、意を決したようにアルに話しかけた。

「アル、私はまだ旅に出られないから、君は先に旅に出て。
 私も病気が治ったら、すぐにアルを追いかけるから」

 リッカはそこまで一気に言うと、微笑みを浮かべながら、アルから離れた。
 アルは黙ってリッカを見上げていた。リッカの後ろで、星がこれでもかという程輝いていた。雲が星を着飾って、煌めいていた。

 あの日、カーテンを閉ざしてベッドに潜り込んだ日から、こうなることは分かっていた気がした。
 きっとあの時、リッカが一番叶えたいことは、叶わなくなってしまったのだ。

 でも、その願いが、半分だけでも叶うなら。
 アルがその願いを叶えられるなら。

「分かった。オレ、空を飛ぶから」

 アルがそう言うと、リッカは笑って「ありがとう」と言った。

 ずっと、夜が明けるまでそうしていたかったけれど、アルはくるりと背を向けて歩き出した。
 数歩離れて振り向くと、リッカが手を振っていた。

 アルはさらに数歩離れた。そしてまたリッカを振り返った。リッカは寒そうに自分の体を抱いていた。
 アルは走り出した。リッカから見えなくなる所まで、電光石火の勢いで走り抜けた。

 そのまま、町の出口まで。

 アルはもう一度振り向いた。もうリッカの姿は見えなかった。帰るべき家は道の向こうにあり、リッカもその中にいるのだろうとアルは思った。

 その家に、今は帰れない。
 アルは、町と外を区切る柵の向こうへ、一歩足を踏み出した。


 外へ。

 風が動いた。
 冷たくも暑くもない風は、アルの旅立ちを祝っているようだった。

「リッカ」

 その風にアルは言葉を乗せる。しばらく会えない。けれど、

「待ってて。色んなものたくさん見て、帰ってくるから」

 走り出す。

「空を飛んで、帰ってくるよ!」


 旅に出る。
 リッカの願いを叶えるために。

 ――空を、飛びたい。
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